稲荷山古墳と江田船山古墳(倭王武・獲加多支鹵大王)

稲荷山古墳と江田船山古墳(倭王武・獲加多支鹵大王)

埼玉県行田市埼玉にある稲荷山古墳。形状は前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造されたものだとされている。国の特別史跡に指定され、出土品の鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は国宝に指定されている。稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小するとちょうど稲荷山古墳の形に近くなる。

  • 墳丘長120メートル
  • 後円部径62メートル・高さ11.7メートル
  • 前方部幅74メートル・高さ10.7メートル
  • 後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。
  • 埋葬施設は2基、礫槨と粘土槨(粘土槨は盗掘にあって居る。)
  • 前方部長軸は富士山に向いている。

晴れた日には100km先の富士山を墳頂部から真正面に眺めることができる。礫槨と粘土槨はいずれも中心部分から外れており、縁辺部にあった。最近ではもっと深層部に未出土の埋葬施設が有る事が解って来た。この古墳の中心的な主墓室はいまだ発掘されていない。

1968年の発掘調査において金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が後円部分の礫槨から発掘された。1978年には、この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が表されていることが判明した。1983年、他の出土品とともに「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として国宝に指定された。関東の古墳の常として金銀(この古墳では銀)の環、鈴鏡が出土している。(関東は鈴鏡、金銀環が出土する。鈴鏡文化と呼ばれる。)

稲荷山鉄剣は、金錯銘を有するが、この金象嵌の文字が古代史を揺るがしている。

銘文の内容

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

 (裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

(表)の訳文

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」

(裏)の訳文

其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『ワ、ワク、カク』+『カタ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

辛亥年七月中に乎獲居臣がこの鉄剣を造ったとある。上祖(先祖)から8代の乎獲居臣までの名前が「その名は…」と書かれている。「獲加多支鹵大王」は「ワカタケル」と読んでいる。

実は明文の有る鉄剣は、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳からも出土している。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ鉄剣が出土した。国の史跡に指定されている。

出土品である銀錯銘大刀の銘文は以下である。

治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□十振、三寸上好□刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□、書者張安也

治天下獲□□□鹵大王の世、奉事する典曹人、名は元利三。八月中、大鉄釜を用いて四尺廷刀を八十練、□十振造る。三寸の上好□を□刀、此の刀を服する者は長寿、子孫は3恩を得るなり。其の統ぶる所を失わず。作刀者、名は伊太□、書者は張安の者也

□は読み取れない文字であるが、可能な限り当て字をして訳していると言う。「獲□□□鹵大王」が何と読むべきか長年解らなかったが、稲荷山鉄剣の発掘で、「獲加多支鹵大王」であることが分かったと言う。

稲荷山古墳の築造年は5世紀の第4半期(476~500年)だと言う。鉄剣を出した礫槨部分は5世紀末~6世紀だと言う。

金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)には「辛亥年」が刻まれていたが、辛亥年には471年と531年が有る。稲荷山鉄剣の被葬者は杖刀人の首として「獲加多支鹵大王」に仕え、江田船山銀錯銘大刀の被葬者は典曹人として「獲加多支鹵大王」に仕えて居る。「獲加多支鹵大王」は九州から関東までを支配していたことになる。

5世紀に日本列島を支配して居たのは大和政権である。だから「獲加多支鹵大王」は大和政権の天皇である。この当時の天皇は雄略である。だから「獲加多支鹵大王」は雄略なのだ、と言うのが現在の定説である。

  • 雄略元年=457年
  • 雄略23年=479年雄略死去

雄略の在位は457年~479年である。辛亥年の471年なら雄略の在位期間であるから雄略が「獲加多支鹵大王」である。

大泊瀬幼武(日本書紀)「おおはっせわかたけ」は「ワカタケル」とも読める。「獲加多支鹵」の「ワカタケル」と同じだ。

「獲加多支鹵大王」は雄略である。と言うのが定説となって居る。

定説によれば稲荷山金錯銘鉄剣の製作年は471年である。稲荷山金錯銘鉄剣には乎獲居臣は獲加多支鹵大王が「天下を治めるのを左すけた」と書かれている。

「獲加多支鹵大王」は471年には天下を治めていた。5世紀のこの時期に天下を治めて居るのは「宋書」に出て来る倭王である。倭王武は478年に朝貢して、上表文に「東は毛人を制する事55国」と書いている。倭王武は関東まで支配している。「獲加多支鹵大王」は471年には天下を治めて居ると書かれているのだから「獲加多支鹵大王」は倭王武である。

定説では「獲加多支鹵大王」は倭王武であり、雄略で大王あるとしている。

辛亥年=471年

「獲加多支鹵大王」=倭王武→雄略

というのが定説である。

江田船山古墳の石棺は入り口が妻入りに付いて居る妻入りの横口式家型石棺である。妻入横口式家型石棺は筑後・肥前・肥後の有明海沿岸にのみ分布している。その中心は筑後の八女古墳群である。江田船山古墳からは武装石人、石製腰掛、小型家形石棺が出土している。これらを石製表飾品と言う。石人、石馬とも有明海沿岸地域に集中している。石人、石馬や妻入横口式家型石棺は有明海文化である。有明海文化は筑紫君の文化である。筑紫君を中心に有明海文化圏は形成された。

江田船山古墳は妻入横口式家型石棺があり、石人、石馬がある。江田船山古墳は有明海文化圏に属している。有明海文化圏の中心は筑後で有る。有明海文化は筑紫君の文化である。日本書紀にも「筑紫君磐井は火(肥)、豊の2国におそいよりてつかえまつらず」と書かれている。筑紫君は肥後を支配している。江田船山古墳の被葬者は筑紫君に仕えて居るのであり、大和王権に仕えて居るのではない。

江田船山古墳から出土した鉄剣銘には江田船山古墳の被葬者は典曹人として「獲加多支鹵大王」に仕えて居るとある。江田船山古墳の被葬者は「獲加多支鹵大王」を主君として仕えて居る。一方、江田船山古墳の被葬者は筑紫君に仕えて居る。江田船山古墳の被葬者は筑紫君に仕え、また一方では「獲加多支鹵大王」に仕えて居る。「獲加多支鹵大王」は筑紫君だからである。

「獲加多支鹵大王」=筑紫君=倭王

江田船山古墳から出土した鉄剣銘には「治天下獲加多支鹵」とある。「治天下」とは天下を治めると言う意味である。「獲加多支鹵大王」は天下を治める「治天下人(天子)」である。天子は天下の頂点にいる。誰からも指図される事は無い。

稲荷山金錯銘鉄剣には「左治天下」、乎獲居臣は獲加多支鹵大王が天下を治めるのを左けた、とある。獲加多支鹵大王は辛亥年には既に「治天下人=(天子)」になっている。

定説では辛亥年は471年である。獲加多支鹵大王は471年には天子になって居なければならない。定説では獲加多支鹵大王は倭王武であるから倭王武は471年には既に天子になっていなければならない。

ところが倭王武の478年の上表文では、倭王武は自らの事を臣と述べている。

  • 臣雖下愚(臣は愚劣なりと言えども)
  • 臣亡考濟(臣の亡くなった父、済は)

また皇帝を「帝」と呼び、忠節を尽くすと言って居る。

  • 以帝德(帝の得を以て)
  • 以勸忠節(以て忠節を勤しむ)

倭王武の上表文では倭王武はあくまでも一将軍である。中国王朝に対して臣下の礼を尽くしている。中国王朝の皇帝が天子であり、倭王武は臣下である。倭王武は478年時点では臣下であって天子ではない。「辛亥年=471年」は成立しない。

  • 建元元年(479年)六国諸軍事安東将軍倭王武に除し号して鎮東大将軍となす「南斉書」
  • 天覧元年(502年)鎮東大将軍倭王武を進めて征夷将軍に進号せしむ「梁書」

建元元年(479年)及び天覧元年(502年)に倭王武は将軍号を授与されている。479年、502年は中国で新王朝が誕生した年であり、479年に斉王朝、502年に梁王朝が誕生している。定説では倭王武は雄略である。雄略の死去は日本書紀479年、古事記崩年干支では489年である。502年には雄略は既に死去している。死去している雄略が中国王朝から将軍号を貰う筈は無いから従来は479年、502年の倭王武の進号を新王朝が生存の確認もしないで勝手に与えたものとしてきた。当時の中国は複数の王朝が併存している。新王朝は誕生したばかりであり、倭国が臣従してくるかどうかも分からない時点で有る。勝手に将軍号を与えるなどと言う事が有る訳が無いのである。将軍号が与えられているのは倭国が新王朝に祝賀の朝貢したからだろう。当時の周辺諸国は新王朝の誕生に素早い動きをしている。

倭王武は479年、502年時点でまだ天子(治天下人)にはなって居ない。中国王朝の一臣下である。

鶴峯 戊申の「襲国偽僣考」に

  • 継体天皇16年(522年)、武王、年を建て、善記と言う。是九州年号の始め也
  • 年号、九州年号。けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年年。その間、年号連綿也。
  • 善記、襲の元年。継体天皇16年壬寅。梁の普通3年に当たる。(中略)善記4年で終わる。
  • 正和、継体天皇20年丙午。正和元年とする。(中略)正和5年に終わる。
  • 殷倒、継体天皇25年辛亥。殷倒元年とす。(中略)如是院年代記、教倒に作る。同書に教倒元、始めて歴を作る、とあるもまた襲人のしわざなるべし。

とあり、武王は年号を建てて居る。九州年号の始まりであると言う。武王とは倭王武であろう。「善記」と言う年号を建てて居る。それは継体天皇16年(522年)壬寅梁の普通3年に当たると言う。522年である。倭王武は522年に元号を建てて居る。倭王武は522年迄生存している。「梁書」に天覧元年(502年)鎮東大将軍倭王武を進めて征夷将軍に進号せしむとあるのは史実である。中国王朝は倭王武の生存も確認せずに勝手に進号するようなことはしていない。年号を建てる事が出来るのは「天子」である。倭王武は522年に「治天下人」「天子」になって居る。

江田船山古墳の鉄剣銘には「治天下獲加多支鹵」とある。稲荷山金錯銘鉄剣には「左治天下」とある。獲加多支鹵大王は「治天下人」であり「天子」である。銘文によれば獲加多支鹵大王は「辛亥年」には既に「治天下人」になって居る。定説では辛亥年は471年であるから、471年の時点で獲加多支鹵大王(倭王武)は「天子」になって居る。しかし、倭王武は478年でも、502でも、まだ中国王朝の臣下である。天子ではない。天子になるのは522年である。辛亥年471年は誤りである。辛亥年は、60年後の531年である。

辛亥年=531年

定説では辛亥年=471年

辛亥年に「獲加多支鹵大王」とあるから獲加多支鹵大王」は辛亥年には既に即位していることになる。倭王武=獲加多支鹵大王であるから倭王武も471年には即位している筈である。

しかし倭王武は471年にはまだ即位して居ない。倭王武は471年にはまだ獲加多支鹵大王になって居ないのである。

倭王武の前代の王は倭王興である。「宋書」「帝紀」には倭王興と倭王武の朝貢を次のように書いている。

  • (孝武帝、大明六年)二月、壬寅、以倭国王世子興為安東将軍。(訳)大明6年(462年)2月、倭国世子興を安東将軍と為す
  • (順帝、昇明元年)十一月、倭国遣使献方物。(訳)昇明元年(477年)11月、倭国使いを遣わして方物を献ず
  • (順帝、昇明二年)五月戊午、倭国王遣使方物、以武安東将軍。(訳)昇明2年(478年)5月、倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以て安東将軍と為す。

倭王興は462年に安東将軍に除正されている。次の朝見は477年である。ところがこれには王の名が無い。477年の朝見は倭王興なのか倭王武なのかが問題である。

従来の歴史学者の説では倭王武は471年には既に即位している。従って477年の朝見は倭王武である、と言うのが定説である。

「宋書」倭国伝の方はこう書いている。

  • 世祖大明六年、詔曰、倭王世子興突世戴忠作藩外海化子寧境恭修貢職新嗣辺業宣授爵号可安東将軍倭国王。興死、弟武立。自称使持節都督倭。百済。新羅。任那。加羅・泰韓・慕韓七国諸軍事安東将軍倭国王。(訳)世祖の大明6年(462年)、詔して曰く、「倭王の世子興は突世戴(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け、境を寧(やす)んじ恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授(う)け、安東将軍倭国王たるべし」と。興死し、弟の武立つ。自ら使持節都督倭。百済。新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓七国諸軍事安東将軍倭国王を称する。
  • 順帝昇明二年、遣使上表曰、封国偏遠作藩子外。自昔祖禰身弓甲冑跛渉山川不邊寧処、東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。王道融泰廓土還幾累葉朝宗不徳子歳。臣雖下愚泰胤先諸駆率所統帰崇天極道逓。百済装治船肪而高句麗無道……(訳)順帝の昇明2年(478年)、(倭王武)使いを遣わし上表して曰く、「封国は偏遠であり、藩を外に作(な)している。昔より祖禰自ら甲冑をつらぬき、山川を城渉し、寧処(安心して生活する)にいとま(ゆとり)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国…(後略)

宋書倭国伝には「興死し、弟の武立つ」とだけ書かれている。宋書帝紀にも倭王武が即位した年が書いて居ない。順帝昇明二年(478年)の上表文の中身を見て見よう。

  • 封国は偏遠であり、藩を外に作(な)している。」と説明している。倭国は中国から遠い所にあると説明している。倭王武にとって初めての朝貢だからであろう。二度目の朝貢であれば、このような説明はしない。
  • 昔より祖禰自ら甲冑をつらぬき、山川を城渉し、寧処(安心して生活する)にいとま(ゆとり)あらず。」先祖の活躍を述べている。いかにして現在の領地を得たのかを説明している。始めての朝貢だから自己紹介文である。
  • 東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国…」倭国が支配する領域を述べている。これも始めての朝貢だからであろう。

順帝の昇明2年(478年)の朝貢が倭王武の始めての朝貢である。従って昇明元年(477年)11月の朝貢は倭王興によるものである。昇明2年(478年)5月の朝貢は倭王武によるものだから、倭王興は昇明元年(477年)11月から昇明2年(478年)5月までの間に崩御していることになる。

倭王興と倭王武の在位  
倭王興の最後の朝貢 477年11月
倭王興の崩御、倭王武の即位 477年11月→478年4月
倭王武の最初の朝貢 478年4月

従来は「辛亥年=471年」とし、倭王武は辛亥年には既に即位し、獲加多支鹵大王」になって居るとしてきた。しかし478年の上表文は倭王武の始めての朝貢であることを示している。倭王武の即位は478年である。「辛亥年471年」は、やはり成立しない。

定説では「雄略=倭王武」である。定説が正しければ倭王武の崩御年と雄略の死亡年は一致する筈である。雄略の死亡年は日本書紀では479年である。

  • 雄略二十三年(478年)八月、天皇、疾彌甚だし(中略)大殿に崩じぬ(日本書紀)
  • 天皇御年壹百弐捨歳。己巳年八月九日崩也(古事記)

己巳年は489年である。雄略は489年8月9日に死んでいる。「紀」の崩年は机上で作られている事が多い。「万世一系」にするためである。「記」の崩年干支の方は記録が有り、それを「記」にそのまま記載していると思われる。「記」の崩年干支は一応信用できる。雄略の死亡年は489年であろう。

鶴峯 戊申の「襲国偽僣考」に

  • 善記、襲の元年。継体天皇16年壬寅。梁の普通3年に当たる。(中略)善記4年で終わる。
  • 正和、継体天皇20年丙午。正和元年とする。(中略)正和5年に終わる。

 

善記」は4年で終わるとある。525年に終わる。

  • 善記 522年~525年
  • 正和 526年~530年

倭王武の年号である善記」は525年で終わる。倭王武は525年に崩御したのであろう。倭王武は478年に即位し、525年に崩御している。実に47年間の在位である。獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と言われる程に若い頃に即位したのだろう。倭王武の崩御年は525年である。雄略が死んだのは489年である。年はまったく異なる。やはり雄略は倭王武ではない。

雄略は実在した人物である。その証拠に年干支がある。「記」「紀」は大和の初瀬地方に居たと書いている。雄略は大和の東南部を領有して居た王である。雄略は葛城地方を支配していた王よりも弱い。「紀」に雄略と葛城地方の王の接触譚が記載されている。

又一時(ある時)、(雄略)天皇が葛城山に登るとき、百官の人等に悉く紅の紐を付けた青摺りの衣服を給わる。彼の時、向こうの山の尾根より山の上に上る人有り。(中略)天皇、望み手問わしめて曰く、「この倭国に吾を除いて亦王は無し。今誰人ぞ此の如く行く」と言う。答えて曰う状(さま)は天皇の如し。ここに天皇大いに念り、矢を刺し、百官の人々も悉く矢を刺す。ここに其の人もまた矢を刺す。(中略)故、吾先に名を告げむ、「吾は悪事と雖も一言、善事と雖も一言、言い離(はな)つ神、葛城の一言大神ぞ」と言う。(雄略)天皇、ここに於いて畏(かしこ)みて(中略)大御刀、及び弓矢を始め百官の人等の着ている衣服を脱がせて拝み献ず。「古事記」

雄略は葛城の王に屈服し、刀や弓矢、着ている服まで献上している。雄略は葛城地方さえも支配して居ない。初瀬地方の小さな王である。「紀」の編者は「万世一系」にするために大和に居た初瀬の王を「天皇」に仕立てて居る。雄略の名である「幼武」も「若健」も獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の名を借りて後から付けたのだろう。雄略をあたかも獲加多支鹵(ワカタケル)大王」に見せかけるためである。「紀」は「万世一系」にするために初瀬の一地方領主を偉大な獲加多支鹵大王であるかのように記述している。

「雄略紀」の年代は雄略元年が457年であり、雄略が死んだ雄略23年は479年である。雄略19年は475年であり、高句麗が百済を一時滅亡させた年である。この年代は実年代と合っており、「雄略紀」のこの時期の内容は信頼できると言える。「雄略紀」の主な出来事は次のようになって居る。

  • 雄略元年457年
  • 雄略六年(462年)4月、呉国、使いを遣わし貢献す。
  • 雄略七年(463年)8月、吉備下道臣前津屋の事件。物部の兵士30人を派遣して吉備の下道臣前津屋を伐つ。
  • 雄略七年(463年)、田狭を任那国司に任命して派遣する。
  • 雄略八年(464年)2月、身狭村主青・檜隈民使博得を呉国に遣わす。
  • 雄略九年(465年)2月、天皇、新羅を伐つため紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰。大伴談連・小危火宿禰等を派遣する。
  • 雄略十年(466年)9月、身狭村主青等、呉の献じた2羽の鶴をもって筑紫に至る。
  • 雄略十二年(468年)4月、身狭村主青と檜隈民使博得を呉国に遣わす。
  • 雄略十四年(470年)正月、身狭村主青等、呉国の使いと共に呉の献じた手末の才伎、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等をひきいて住吉津に泊まる。
  • 雄略十八年(474年)8月、物部兎代宿禰。物部目連を遣わし、伊勢の朝日郎を伐たしめたまう。
  • 雄略二十年(476年)高麗王、大いに軍兵を発し、伐ちて百済を滅ぼす。
  • 雄略二十一年(477年)2月、天皇、百済が高麗のために破れぬと聞いて、久麻那利を以て州王に賜い、其の国を救い興す。
  • 雄略二十三年(479年)8月、天皇、大殿に崩ず。

従来は「雄略紀」に書かれているこれらは雄略の事績であると考えられてきた。

雄略八年(464年)、雄略十二年(468年)に呉と交流している。この時代に呉国(宗王朝)と交流が出来るのは倭王である。倭王興は462年に即位し、朝貢して安東将軍に除正される。

  • (孝武帝、大明六年)三月、壬寅、以倭国王世子興為安東将軍。「宋書」(訳)大明六年(462年)2月倭国王世子興を安東将軍と為す。
宗王朝は462年3月に倭王興を安東将軍に除正する。それを伝える使者が4月に呉国から来ている。「紀」は次のように記述している。
 
  • 雄略六年(462年)4月、呉国、使いを遣わし貢献す。
宗王朝と交流を持って居たのは倭王である。倭王興の在位は462年~477年である。呉からの使者は倭王興の所へ来ている。また、雄略十年(466年)9月に身狭村主青等は呉の献じた2羽の鶴を持って筑後に返って来る。倭王興は筑紫君であるから身狭村主青等は筑後に帰ってきている。雄略紀には朝鮮半島や中国との交流や吉備王国の討伐等が書かれている。
これらは従来は雄略の事績であるとしてきた。しかし、大和政権の出来事ではない。筑紫君(倭王)の事績である。
雄略紀は457年~479年である。雄略紀の殆どは倭王興の在位期間(462年~477年)と重なる。
雄略紀は倭王興の記録であると言える。
従来は「雄略紀」は雄略の記録であり、雄略は倭王武であるから「雄略紀」は倭王武の記録であると考えられてきた。しかし、倭王興や倭王武の在位期間を調べると「雄略紀」は倭王興の時代である。倭王武ではない。「紀」は倭王興の事績をあたかも大和政権の雄略の事績であるかのように記述している。
「雄略紀」は倭王興の事績を記録したものである。
 

<参考資料:佃収氏論文より抜粋>