聖徳太子伝暦

聖徳太子伝暦

「聖徳太子伝暦」は通説では藤原兼輔による917年(延喜17年)の撰とされている。このように「聖徳太子」の4文字が現れるのは奈良時代以降の文献である。「日本書紀」に「聖徳太子」と言う4文字は現れない。「聖徳」や「皇太子」は現れても「聖徳太子」の4文字は無い。

これはあたかも「俾弥呼」や「壹與」が「日本書紀」に現れず専ら「倭国女王」とされて神宮の項にはしがきされている現象と同じである。「日本書紀」に「俾弥呼」無し。「日本書紀」に「聖徳太子」無し。であるならば、この人物群は近畿天皇家とは無関係と考えるのが必然である。

更に決定的なのは推古,厩戸皇子の同時代に中国の隋が記録した「隋書俀国伝」には阿蘇山下の国家と王が書かれ、その王は「俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤 」と記載されている事だ。それでは「聖徳太子」も九州の阿蘇山下の王の一族の事だと直感するのが自然の成り行きとなる。

「隋書俀国伝」は唐代の貞観10年(636年)成立のほぼ同時代資料である。「俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤 」 は中国の皇帝に国書を送った。「日出る処の天子、書を日没する処の天子に送る。恙なきや」「天子」は世界に自分ただ一人だと思って居る隋帝はカンカンに怒り「こんな無礼な文書は今後報告するな!」と言ったと言う。文書上はやや穏便に書かれているが、この時代にあってこんな事をすればすぐさま討伐軍を送られてもおかしくは無い。国書と言うからには国と国との文書である筈だが、この時代の近畿の王は推古で女性である。対して「隋書俀国伝」の倭王は「多利思北孤 」と名乗る男性であり、後宮も有ったと言う。

「日本書紀」は近畿天皇家が書いた近畿天皇家に利する歴史書である。他方、中国の文献は中国の歴史を書き留めたものであり、なんら日本政治の権力者に利する目的は無いのだ。どちらを信じるかは自明の理である。海外からの目で書かれた日本歴史の方が潤色なき真実と見る事が理性的と言える。

しかも、この「聖徳太子伝暦」には怪しい予言記事が現れている。

聖徳太子46歳(推古25年西暦617年)、48歳(推古27年西暦619年)に遷都や聖人の出現の予言が集中的に出てくるのだ。

太子46歳の予言

吾死して250年の後(872年)一帝ありて仏法を崇貴し彼の谷前、此岡の上に伽藍を建て並べて妙典を興隆す。又、西原の下を指して曰く、彼の平原に亦塔廟を興す。

四方を遍望して曰く、此地を帝都として気近く於今一百年余歳在る。一百年をおえ北方に遷京し3百年の後に在る。

日本書紀では近畿和政権の厩戸皇子が617年の前後に北方遷都を行った形跡など一切ないから「予言」とするしか無かったのだろう。近畿和政権の事だとみればなんのことやら理解不能に陥るが、これを九州年号と重ね合わせると合理的な天子の詔となる。

九州年号は翌618年に「定居」から「倭京」に改元されている。「倭京」は倭国の都の意味だから、遷都に相応しい年号で617年はまさに「遷都の詔」を発するに適当な時期となるのだ。「此地を帝都として気近く於今一百年余歳在る。 」と言って居るこの地とは何処なのだろうか。倭国の都が百年前からあった土地。推古25年(617年)の101年前は、最初の九州年号「継体」元年、517年となり、これは築紫君磐井の時代である。

磐井の墳墓は八女の岩戸山古墳であり「日本書紀」によれば「磐井の乱」の戦闘は「筑紫御井郡」で戦われたと記述がある。加えて万葉集4261番の作者不詳の歌には「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都と成しつ」と歌われている。この101年間の帝都の場所は筑後三瀦(福岡県三瀦郡水沼:古代の水沼県)だったと思われる。

5世紀、倭の5王は南朝に臣従していたが502年に南朝「斉」は滅亡し「梁」に替わった。高句麗王高雲は車騎大将軍に、百済王余大は征東大将軍に進号する中で、斉時代に鎮東大将軍だった倭国王武は征東将軍に格下げされている。以後高句麗、百済、新羅が朝貢する中で、倭国からの朝貢記事が見えなくなる。建元する、自ら年号を立てると言う事は王朝として自立する、自ら天子となることを意味するから、梁に不満を持つ磐井は517年に南朝の体を継ぐのは倭国であるという自負を抱き、「継体」年号を立て、筑後を帝都に定めた可能性が高い。

気近く於今一百年余歳在る。 」を過去の経過とするならそれから101年を経過した617年に「気近く慣れ親しんだ」筑後から「北方に遷京すること」を詔したことになる。筑後から「北方に遷京」する、筑後から見て北方で「京」と呼べる地域は大宰府しかないことは明らかだから、「北方遷京」とは大宰府への遷都を意味する。つまり倭京とは大宰府の事なのである。

築紫君磐井の時代に建元して101年間も過ごした帝都三瀦を捨て、新たに大宰府に京を移した理由は何だろう。

筑後遷都以降の6世紀、倭国は新羅との関係で劣勢に立たされていた。宣化期には新羅が任那を侵略し、大伴金村をして救済を図ったが成功せず、欽明期には百済も聖明王が新羅に敗れ殺されるなどの滅亡の危機に瀕していた。欽明23年(562年)に任那は滅亡し、筑紫の対岸の朝鮮半島は仇敵新羅の支配するところとなった。したがって、戦場から遠い筑後の三瀦の地を久しく本拠としたと思われる。

7世紀に入ると百済の武王が密かに高句麗と結び、新羅に攻勢をかけるようになり611年から616年にかけて新羅の北西領域の椵岑城や母山城を攻略する状況となった。朝鮮半島では新羅の脅威が薄れる一方、中国大陸では中国北朝の隋により中国南朝の陳が滅ぼされる(589年)等の激変があった。

隋書琉球国伝 

大業4年(608年)帝、復た(朱)寛をして之を慰撫せしむ。琉球従わず。寛、其の布甲を取りて帰る。時に俀国の使い来朝し、之を見て曰く「此れ夷邪久人の用いるところなり」といふ。帝、武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州を遣して、兵を率いて義安より浮海し之を撃たしむ。高華嶼に至り、又東行2日黽鼉嶼に至り、又一日便ち琉球に至る。初め、稜(陳稜)南方諸国人を將いて 従軍せしむ。崑崙人の頗る其の語を解する有り。人を遣わして之を慰諭す。琉球従わず。官軍を拒み逆らふ。稜、之を撃ち走らす。進みて其の都に至る。頻りに戦ひ皆敗り、其の宮室を焚き、其の男女数千人を虜とし、軍実に載せ還る。爾より遂に絶つ。                                                  

隋書俀国伝

大業3(607年)その王多利思北孤 、使いを遣わして朝貢す。

明年(608年)(帝)、文林郎裴世清を遣し俀国に使せしむ。…是において宴享を設け以て清を遣し、復た使者を清に随ひて来らしめ方物を貢す。この後、遂に絶つ。

九州王朝との縁も深い南方諸島への「宮室を焚き、其の男女数千人を虜とす」と言う隋の非道な侵略行為は多利思北孤にとって重大な脅威として感じられたと想像できる。しかも隋は589年から614年にかけて4度に渡り高句麗への大規模な遠征を行って居る。特に612年の第二次遠征は百万人規模の大軍であったとされており、608年の琉球討伐に続く東方侵略は多利思北孤にとって極めて危険な兆候に見えたに違いない。

隋の脅威が迫って居る事を実感した九州王朝が隋と一衣帯水の有明海沿岸から北方の大宰府に遷都したのは超大国、隋への防衛策だったと言える。

611年は九州年号「定居」にあたり、618年は「倭京元年」にあたる。「定居」改元は有明海沿岸から北方の大宰府を新都予定地と定め布告した事を意味し、「倭京」改元は遷都を実施した事をしめすものだろう。

太子48歳の予言

推古27(619年)…便ち近江を超え、志賀栗本等諸寺を巡検し竟る。栗津に駐駕し左右に命じて曰く、吾死して後、50年後(672年)一帝有りて此処に遷都し、十年を治む。…大河を渡り交野を行き経て、茨田堤より直に堀江に投じ江南の原に宿す。東原を指して左右に謂ひて曰く、今後一百歳間に、一帝王有りて都を此処に興す。彼の処一十年余年後に孤莵聚を成す。…茨田寺の東側に駐し、密に左右に謂ひて曰く、吾死して後、20年の後(642年)一比丘有り。聰悟智行し、三輪を流通し、衆生を救済し、衆に貴る。是比丘に非ず、是れ吾の後身の一軆なり。…

近江遷都は「日本書紀」では天智6年(667年)で、「海東諸国記」では661年。672年は天武元年で近江朝滅亡年だから近江で10年治めたのなら近江遷都は「海東諸国記」の661年が正しい事になる。「伝暦」の聖徳太子予言記事は九州王朝の天子阿毎多利思北孤の大宰府遷都宣言が近畿和政権の「聖徳太子」たる厩戸皇子の予言であると潤色を施されて「伝暦」に移されたものだった。「予言記事」とせざるを得なかったのは当時近畿和政権に北方遷都の実績が無い為、聖徳太子の遷都詔とすることが出来なかったためだ。そして近江遷都や難波遷都、平城京遷都などの後年の知識に基づく潤色を加える事で、太子の予言として辻褄を合わせたものだったのである。


参考:盗まれた遷都詔ー聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤 正木 裕氏論文