聖徳太子 九州年号聖徳

聖徳太子 九州年号聖徳

「聖徳太子」の4文字は日本書紀にはない。古事記にもない。「聖徳」や「皇太子」と言う文字が現れても「聖徳太子」の4文字はない。この4文字が現れるのは奈良時代以降とされる文献ばかりだ。数ある聖徳太子の伝記中、有名どころは「聖徳太子傳記」と言う文保2年(1318年)頃に成立したと言われる伝記だ。この「聖徳太子傳記」には複数の九州年号が散見され、九州年号には「聖徳」という年号すらあると言う念の言った歴史資料状況である。

ここで何を言いたいのかと言えば聖徳太子は近畿天皇家の人に非ず。九州王朝の一員である、という事を言いたいのだ。

「聖徳太子傳記」によれば聖徳太子の生まれた年は「金光3年壬辰歳也(572年)」と堂々の九州年号「金光」が麗々しく書かれている。生まれ年が「金光3年壬辰歳の皇子」が一体どうしたら年号群など生み出せもしなかった近畿天皇家の人間であると言えるのか。

「日本略記」(文禄5年・1596年成立)には「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて鏡常3年癸卯(583年)66箇国に被割けり」とあり、これまた堂々の九州年号「鏡常」がきらきらしく書かれて居るのだ。

「聖徳太子傳記」には数々の「聖徳太子」の事績が書かれている。
「太子十八歳御時 春正月参内執行国政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇国未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ヶ国、太子又奏して分六十六ヶ国玉へり‥‥筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔は六ヶ国、今は分て作九ヶ国、名西海道也‥‥」

そして日本書紀にはこの六十六か国分国と整合する記事がある。
「崇峻二年(589年)の秋7月壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遺して、蝦夷の国の境を観しむ。宍人臣鴈を東海道の使に遺して、東の方の海に浜へる諸国の境を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遺して、越等の諸国の境を観しむ。」

「六十六ヶ国分国」とは新たに地方統治制度を創設・整備し、諸国の領域を定める事を意味するから、東山道、東海道、北陸道の「諸国の境を観る」との記述はまさにそれに当たる。また、ここから律令制による「各道を構成する律令地域」としての支配、そうして「王基に至るまでの大道を付ける」ことは中央集権体制の整備を意味する。隋書俀国伝によれば「俀国の境は東西五か月行、南北に三か月行で、各々海に至る」とあり、多利思北孤の支配領域が東山道、東海道、北陸道を含む事は明らかだし「竹斯国より以東は、皆俀に附庸す。」とある。
「附庸国」とは「宗主国に従属して、その命令に従う小国。属国。」を意味するから各道を構成する諸国は「俀国の命令に従う従属国」だったということになる。「俀国の境」とは、こうした「従属国を含む支配領域の境」を指すものと言えよう。したがって「聖徳太子傳記」記事は、崇峻二年(589年)に「俀国の支配領域全域に及ぶ中央集権体制の整備」を企画し、新たな地方統治制度構築の提案が奏上された事を示す。

この崇峻二年(589年)は九州年号では端政(589年~593年)年間に当たる。「端政」とは「正しい政治を始める」つまり「初めて国政を執行した年」と言う意味だから多利思北孤の即位の年に相応しい年号だ。日本書紀崇峻二年条には厩戸皇子の国政執行も天子の即位も一切書かれてはいない。「端政」への改元は多利思北孤の即位によるものだが、そもそもからが九州年号の改元なのだから近畿天皇家の日本書紀に記載が無いのは当然だろう。「奏上された」とあるけれど、天子たる多利思北孤が発したとなると「奏上」ではなく「詔を下した」事となる。高良玉垂命の皇子多利思北孤が玉垂命の崩御に伴ない、新天子となり施行した目玉の事業として推進されたと思われる。

「日本略記」(文禄5年・1596年成立)には「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて鏡常3年癸卯(583年)66箇国に被割けり」とある。鏡常3年癸卯(583年)は多利思北孤の前代、高良玉垂命が在位中であるから、多利思北孤が太子であった時の事である。したがって九州王朝の太子、多利思北孤が分国を上奏し、その6年後の端政元年(589年)、多利思北孤即位に合わせて自らの手で分国したのであろう。

またこの年に「筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔は六ヶ国、今は分て作九ヶ国」となし、九州島を九国としたと「聖徳太子傳記」に記述がある。「九州」と言う用語は古代中国に於ける「天子の直接統治領域」を意味する政治用語である。その用例は中国の古典、代々の典籍の至る所に存在する。

  • 禹、九州を分かつ
  • 凡そ九州、千七百七百三州
  • 天に九野有り、地に九州有り
  • 禹の九州を序する、是なり
  • 今、魏、九州に跨帯す

古代中国の伝説の聖天子、禹は自らの直接統治領域を九つの州に分けて統治したと言う。したがって「九州」と言えばそのまま天子の支配領域を意味し、必然的に九州には天子が君臨して居る事になる。「九州」という語義が持つ政治性であり論理性がここにある。九州こそが天子の領域であり、ここに天子が居たのだ。

参考文献:九州王朝の論理 「日出る処の天子」の地 明石書房
    :盗まれた聖徳太子伝承 古田史学の会編