荒覇吐宮殿

荒覇吐宮殿

「時に丑寅日本国にては荒覇吐王居武蔵大宮に在りて、此の域を安東と称し、宗帝よりの賜号とせり。坂東に位せる安東将軍は五代に相継ぎて、讃美彦、珍美糠彦、斉糠彦、興美彦、武波日彦と曰ふ。」
 
「丑寅日本紀」第八“倭国天皇記国記之事”より。
 
大宮一宮氷川神社は約2400年前からの歴史があると言われている。「大宮」は荒覇吐王朝の王都であった故事から来た地名である。荒覇吐神社は、荒脛社とも記載される。荒覇吐神は、門客人社とも門客人明神社とも言われ、熊川神社末社稲荷神社はかって荒覇吐神社で有ったとも言われている。武蔵一宮大宮氷川神社の周囲には数多くの氷川神社があるが、そもそも氷川神社は荒覇吐神社であったらしい。

寛政二年(1790)の「武蔵一宮氷川神社宮中絵図面」 では、荒脛社となっている。天保七年(1836)発刊の江戸名所図会 巻の四(斎藤月岑著)では荒波々畿社とかかれている。これによれば、本殿が中央にあり、後ろに男体社、女体社、荒脛巾社が並列して描かれている。

 
荒脛巾・荒吐・荒覇吐・阿羅波比・阿良波々岐など表記は様々だが、東北地方をはじめ、この神を祀る神社は全国にあると言う。あの伊勢神宮でさえ、客人神(まろうどがみ)として祀っていると言う。

江戸時代、文化・文政年間(1804~1831年)に編纂された武蔵国の地誌「新編武蔵国風土記」には、「門客人神社」に関して次の様に記載されている。

『 いにしえは、荒脛巾神社と号せし。門客人社と改め、テナヅチ、アシナヅチの二座を配した。 』

この荒覇吐神に名残が残って居るように、実は古代埼玉は荒覇吐王朝の為政下にあったのである。

「東北陸羽史談 二」陸羽国之奇談

甘橿の丘にて討死せし蘇我蝦夷が、死を以て尚秘せし天皇記は、天皇耳の築紫日向に創まれる神話に祖先をかまえて歴代とせるは尚や信じるに足らざる也。天皇とは氏にして、耶靡堆に氏をかまうるは蘇我氏・物部氏・大伴氏・春日氏・磯城氏・葛城氏・阿毎氏・多利思比孤氏・阿輩雞彌氏・和珥氏・巨勢氏・平群氏・紀氏らにて、何れも王朝を司どられ、過却にありては阿毎氏が筆頭の歴史を保てり。

天皇氏が勢を爲したるは後世にして、天皇記にてはその一世を舊史を攺め、天皇氏一世を挙號せるは大根子日子なるも、その出自になるは荒覇吐五王より故地奪回を果したるより、耶靡堆諸氏の從屬と相成り、その実相を記せしは天皇記なりと曰ふ。

この天皇記ぞ後世になる古事記・日本書紀らと異なりければ、天皇氏にありて所持せる蘇我氏に返却するべく旨都度に請ども、蘇我氏特權の保持なる證とて應ずる無ければ、中大兄皇子の命令にて船史惠尺が蘇我邸を襲いて灾るも、天皇記・国記の巻ぞ見當らず。蘇我蝦夷は死したるに、此の二巻を武藏の和銅山に存せるあらはばき神社に秘藏し置けるを、平將門の代に社殿再建にて見付けられたり。

依て將門是れを神皇の位にして、東国を平政し立君せしにや。朝廷は挙げて將門を討伐せんとて遂に將門を討取るや、その天皇記を奪取せんとせしも見當らず。北の中尊を祀る極樂寺、更に北なる淨法寺までも詮儀されしも、未だ解らずと曰ふ。

寛政六年一月一日
秋田孝季」

「武藏の和銅山に存せるあらはばき神社」とは和銅釜萢邑荒脛巾神社の事で有ると言う。埼玉県秩父市の和銅山にある荒覇吐神社の事で、和銅年間に和同開珎が製造されたところである。

日本の古代には多様な王朝が存在したのである。

「荒覇吐王居武蔵大宮」現在の大宮一宮、氷川神社のことである。