天国(あまくに)の領域

天国(あまくに)の領域

天国(あま国)の領域

本居宣長、津田左右吉は古事記、日本書紀の「高天原」を天上に有るとしていたと言う。高天ヶ原天上説が学会の通説であると言う。以下に天国の記述を見よう。

    • 「請う。姉(天照)、天国に照臨し、自ら平安なるべし。」素戔嗚の言葉、日本書紀、神代紀、第7段、第3、一書              
    • 「是の時、素戔嗚尊、天より出雲国の簸の川のほとりに降り到る。」日本書紀、 神代紀、第8段、本文
    • 「是の時、素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥いて新羅国に降り振り、曾尸茂梨の処に居す。」日本書紀、 神代紀、第8段、第4、一書
    • 「天の岩位を離れ、…竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降り坐す。」古事記、天孫降臨

学会の2大重鎮がいうからと言って、人間の歴史である以上、「天国」の領域は地上にある筈だ。天上の国から降って湧いた人間が子孫を残せるはずは無いのだ。人間が人間で有る以上、女の腹から生まれ、人生を過ごしたはずだ。古事記・日本書紀に言う「天国」とは地上のどこだろうか。

日本書紀神代記、大八島国の生成の段によると…、

「次に筑紫島を生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曽国は建日別と謂ふ。 次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名を天之狭手依比売と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別と謂ふ。故、此の八島を先に生めるに因りて、大八島国と謂ふ。然ありて後、還り坐す時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別と謂ふ。次に小豆島を生みき。亦の名は大野手比売と謂ふ。次に大島を生みき。亦の名は大多麻流別と謂ふ。次に女島を生みき。亦の名は天一根と謂ふ。次に知訶島を生みき。亦の名は天之忍男と謂ふ。次に両児島を生みき。亦の名は天両屋と謂ふ。 」 亦の名を持つ島々が次々と生まれた事になって居る。

古事記・日本書紀内の天津神とその子や孫たちの行動範囲はどうか。 

  1. 伊邪那岐神は、出雲に有ると言われる黄泉の国に行った。その後、筑紫の日向の橘の小戸(博多湾岸。西浜)に返って来た。此処で禊をして天照や月読や素戔嗚らを産んだ。
  2. 天照は筑紫の博多湾岸(姪浜付近)で誕生した後「天国」に引きこもり、そこから出た事が無い。
  3. 素戔嗚は、始め新羅国に行き、後、出雲に行った。
  4. 天照の子、天の忍穂耳は「天国」から出た形跡がない。
  5. 天照の孫、邇邇芸は「天国」を出て、筑紫の日向の久士布流多気(糸島郡、高祖山連山)に来て定着した。
  6. 天鳥船神・建御雷神は、「国譲り」の交渉で、天照の使者として「天国」から出雲の伊那佐の小浜に降り振った。

  • この様に、天つ神々の天国からの行動範囲は、筑紫、出雲、韓地(新羅国)の、この3地域に限られている。しかも、この3地域に出向く際、いずれも途中の中間経過地が書かれて居ない。だから、「天国」は、この3地域に共に接して居るのだ。つまり、この3地域に囲まれた、その内部にあるのだ。

  • また、「天国」は筑紫ではない。邇邇芸は「天国」から筑紫に天下って「天孫降臨」しているのだから。そして朝鮮半島でもない。素戔嗚は天国から新羅国に降り到っているのだから。「日本書紀、 神代紀、第8段、第4、一書」の同文には「新羅国」は「韓地」と表現されている。だから、朝鮮半島は筑紫や出雲と同じく、「天国」では無いのである。

  • 「筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曽国は建日別と謂ふ。 」九州の地域には「別」の字がついて居る。肥国の「建日向」は「建日別 (熊曽国 )」に向かう、建日に向かう途中の地と言う意味だ。「建日別 (熊曽国 )」に行く途中の豊国の分国と言う意味である。「久士比 」とは「奇し火」、「泥別 」とは泥根の根分け。「分国」の意味だ。この肥国=建日向日豊久士比泥別と見る、その国は何処だろうか。いうまでも無く「筑紫国=白日別」を原点として肥国の「建日向」と言っているのである。では、「日別」の起点は?

  • 肥国を建日に向かう、と見る視点の原点、それは肥国から見て北の白日別(筑紫)であるとすれば、その筑紫の北には何があるか?それは「天比登都柱」(天一柱)、壱岐である。白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別、これらは「天からの日分別け」、つまり「天国」の「分国」であるという名前なのである。
  • 津島 、伊伎島 、小豆島 、大島 、 女島、知訶島、両児島の亦の名を持つ島々、それは一定の領域、朝鮮半島と九州との間の領域の島々である。

  • それは、福岡県宗像市の鐘ノ岬から志賀島、糸島半島、唐津湾を経て佐賀県唐津市の東松浦半島までの九州の海岸から、沖合は大島、地島、沖ノ島、長崎県の壱岐、対馬までの海域、玄界灘の及ぶ地域であり、響灘、つまり、山口県長門市の川尻岬から関門海峡西口を経て福岡県宗像市の鐘ノ岬、地島、大島に至る海域を含む地域である。
  • 下図は古田武彦氏著「盗まれた神話」より↓



  • 国生み神話の最後に書かれている島は何処だろうか?伊邪那岐・伊弉冉神は、吉備児島をはじめとして次々と国生みし、その最後、知訶島(五島列島)の後に両児島、亦の名は天両屋を産むのだ。つまり伊邪那岐・伊弉冉神が返ってきた出発点付近で有る。この島は何処か。

  • この島は福岡県宗像郡大島村に属する。地図で見ると、まさに2つの島からなって居る。「沖ノ島」と「小屋島」だ。「天の両屋」または「天の両屋島」。この島の側に「天狗岩」と「御前柱」と言う2つの岩島があり、昔から沖ノ島の鳥居に見立てられて来たと言う。壱岐の島入り口に「御前」と言う禊場があり、上陸する人はまず此処で禊をしなければならない。現在では、女人禁制の島となって居るが、大昔には逆であっただろう。神聖な巫女がいる場所。古代のこの場所は男性禁制であったと思われる。

  • 沖ノ島には岩上遺跡、岩陰遺跡があり、祭祀遺跡である。海の正倉院と呼ばれる古代遺物の宝庫であることは有名である。ここが「天国」の中心。「高天原」であり「天の岩戸」である。

  • ここで東北に伝わる古代の人祖に付いての記述を見てみよう。和田家文書である。

  • 和田家文書「丑寅日本絵巻」

    大古より世にある事の記し置けるは語部録なり。語部録とは、丑寅日本國の國に渡来し土着せる民族・阿蘇部族、次に津保化族にて、國を肇む事五千年前に遡りぬ。代々、山海の幸に衣食住に安養し、人の和を保つ民族一統を自發して、丑寅日本國を坂東に至る民族權を渡統せしめたり。

    古代信仰あり、荒覇吐神と曰ふなり。その發祥なる地は、はるかなる波斯の地より吾が國に渡来、民族の傳ふるものなり。凡そ民祖の地は、渡来故地なる波斯の地なりと曰ふ。

    抑々、宇宙成れる創より、創るは因と果なり。阿僧祇の星は銀河となり、日輪や月界誕生し地の星は成れり。陸と海に表をなせる地球星は、日輪の光熱を適當し、海中に生じたるは藻の如き微生物生じ、やがて成長したるは萬有の生命體なり。今にして世に生存なき生命をなせし古代なる生物の岩となれるを、山野に見付くるありけるありて、古代の證となせり。

    萬有生物生命は、常にして風土適生に耐生を生長化せしめ、世に人間とて誕生せしは吾等人祖にして、白黄黒肌の三種に誕生すと曰ふ。人は各々種を重じて闘爭を以て続榮を欲するが故に、智のある民は未知なる國に求めて安住の新天地を、日に向ひて移りぬ。人は宇宙の運行を見つけて暦を知り、言葉の代りに文字を以て傳ふるに知覚す。

    丑寅日本國の文字は、語部にて遺さるものなり。依て古き代の事は今に傳はりぬ。丑寅日本國は國の創より、語部文字に記あり。倭史の神代とは異なれるなり。丑寅日本國の史は神の事、歴史の事は区を分つなり。神事とは信仰にして、人の祈りの他非ざるなりと力念す。依て奇想天外なる非事實は、一行だに記逑のなかりきなり。

    信仰にして荒覇吐神を記逑あるも、その要なるは哲理にして、因と果になる萬有なる眞理の他に神として人身に結ぶるはなかりき。如何なるをしても、人身は人身にして、大王たりとも神とは成らざる道理を解き、迷信に随ひざるを導くは信仰なり。

    依て、倭史の如き神代とあるに惑ふべからず、能く己れを心に不動たれ。宇宙に不動たる北極星の如く、世の阿僧祇なる造話作僞の信仰に歴史に惑ふ勿れ。眞實は一にして、二つのあるべからざると能く心に不壊たるべしと戒しめ置ぬ。汝心不動たれば、あなかしこ、草々。

    寛政五年正月
    秋田孝季

    東北の歴史を記した和田家文書は旧石器時代からの日本列島の記述である。弥生期の渡来人である天国から降り立った天孫族とは、歴史の捉え方が明確に異なって居る。どちらがより真実に近く、実態の反映と言えるのかは、それぞれの感想に任せたいと思う。

    参考文献:古田武彦氏「盗まれた神話」他古田氏の著作。