弥生後期(2世紀~3世紀)の大和盆地は金属器空白地域である。鉄が全く出土しない。銅も少しばかりの鏃が出土するだけだ。徳島、近江、遠江などの周辺地域には巨大銅鐸が今は盛りに出土する時間軸なのに。弥生期の日本列島は銅と鉄の文明だった。それなのに独りポツンと金属器がまったく出土しない地域があるとは‼
銅鐸分布図(広島県から静岡県まで)は同時に銅鏃の分布地帯でもあった。しかし倭人伝には銅鏃の記載はない。(骨鏃と鉄鏃のみ)。だが古墳期に入ってもなお、近畿の古墳からは銅鏃が出土するのだ。だから銅鏃の存在ひとつをとっても「邪馬台国近畿説」は成り立ちようが無いのだ。
「壊された銅鐸」問題もある。最初、奈良の巻向遺跡で発見され「壊された」のか「壊れた」のかで議論を呼んだ。やがて大阪の利倉・池上、香川県の森広などの各地で同様の壊された銅鐸が出土したことによって、「壊された」事が疑えなくなった。全銅鐸圏の消滅以降に巨大古墳が造営されるようになったのである。
弥生後期末の全銅鐸の消滅に先行して弥生後期初頭前後から銅鐸の消滅が始まった場所、それが近畿大和盆地なのである。弥生後期(2世紀~3世紀)の大和盆地には銅鐸を有難がらない集団が入り込んで居た。そう思うのが現実的なのである。それは「古事記」の伝承する神武~開化の9代、博多湾岸の銅鏡・銅戈・銅矛・銅剣・勾玉を権力の象徴とする集団の一部が侵略入植し逼塞して居た時間帯なのだと言える。神武~開化までの9代を架空とする歴史学者は大和盆地の金属器の空白に付いて何かを語る事が出来るのだろうか。また、倭人伝に書かれた銅鏡・銅戈・銅矛・銅剣がまったく出土しない近畿大和盆地を「邪馬台国」の在処だとする論者は、この現実をどう語るのだろうか。
古事記によると熊野から紀伊山地を横断して来た神武は、宇陀や忍坂、師木(磯城)等で戦い、奈良盆地の敵対勢力を倒し、畝火の白檮原宮で天の下を治めたとされている。宇陀や奈良盆地の幾つかの豪族と戦っただけで天下を支配出来たかのような書き方である。奈良盆地の外では生駒山西麓(現東大阪市日下)で手痛い敗戦を喫し、和歌山平野、熊野地域、奈良盆地への侵入経路にあたる宇陀地域での戦いがあっただけで天下に君臨出来る筈もなく、そのまま盆地内で逼塞する小勢力として留まったと言うのが真相だろう。
奈良盆地内になんとか侵入しただけの神武を自らの祖先と言う近畿天皇家は、九州から来た天孫の子孫であると言う歴史を創作したかったのである。近畿天皇家こそが日本列島唯一無二の支配者である事を正当化し、主張しようとした古事記編纂の目的がはっきりと表れている。自らこそは祖先神である天照大神の血を引く神武の血統を継ぐものであるとする目的が有ったのである。なんとか奈良盆地への侵入を成し遂げただけの神武を「畝火の白檮原宮に坐しまして、天の下治らしめしき」としたのも畿内への侵略時に既にして天下を掌中に収めていたとするためである。
この事は古事記が編纂された8世紀時点に於いて、九州からの侵略物語は神武によるものがただの一例のみ存在したと言う主張でもある。奈良盆地の一隅に割拠する一豪族を我が先祖としたとする近畿天皇家の二代目綏靖から九代開化迄は見事に奈良盆地から一歩も足を踏み出して居ないのである。同時に奈良盆地内の制圧譚も古事記、日本書紀共に無いのである。以下の表は欠史8代の婚姻関係である。
人物 | 書物 | 正妃 | 正妃の一書 | 妃 | 妃 | 妃 | |
神武 | 記 | 大物主の娘 | 日向 | ||||
紀 | 事代主の娘 | 日向 | |||||
綏靖 | 記 | 師木県主 | |||||
紀 | 事代主の娘 | 磯城県主 | 春日県主 | ||||
安寧 | 記 | 師木県主 | |||||
紀 | 事代主神系 | 磯城県主 | 十市系? | ||||
懿徳 | 記 | 師木県主 | |||||
紀 | 姪 | 磯城県主 | 磯城県主 | ||||
孝昭 | 記 | 葛城系(尾張) | |||||
紀 | 葛城系(尾張) | 磯城県主 | 十市系? | ||||
孝安 | 記 | 姪 | |||||
紀 | 姪 | 磯城県主 | 十市県主 | ||||
孝霊 | 記 | 十市県主 | 春日系 | 不詳 | 不詳 | ||
紀 | 磯城県主 | 春日系 | 十市県主 | 十市系 | 十市系 | ||
孝元 | 記 | 穂積臣 | 穂積臣 | 河内 | |||
紀 | 穂積臣 | 物部臣 | 河内 | ||||
開化 | 記 | 穂積臣 | 旦波県主 | 丸邇臣 | 葛城系 | ||
紀 | 穂積臣 | 丹波系 | 和珥臣 | ||||
崇神 | 記 | 従妹 | 木国造 | 尾張連 | |||
紀 | 従妹 | 紀伊国系 | 尾張系? |
師木県主(古事記)は磯城県主(日本書紀)である。一書による記載となると二代綏靖、三代安寧、四代懿徳、五代孝昭、六代孝安と古事記よりも数多くの磯城県主系の后を迎えており、実はこの家系自体が磯城県主であったのではとの疑いを持つほどである。古事記によると二代綏靖の妃、河俣毘売は師木県主の祖と書かれており、二代綏靖は師木県主の祖先だと言う事になるのだ。師木県主の統治した地域は、明治30年に式上、式下、十市の三郡を合併して磯城郡となっている。現在の桜井市、田原本町、川西町、三宅町あたりであったと思われる。神武の子孫は此の地で磯城県主をしていた小さな豪族であった可能性が高い。
次の表は宮居と陵墓の場所である。
人物 | 宮居 | 陵墓 |
神武 | 畝傍山麓:橿原神宮 | 畝傍山麓:橿原市四条町 |
綏靖 | 葛城:御所市森脇 | 畝傍山麓:橿原市四条町 |
安寧 | 葛城:大和高田市三倉堂 | 畝傍山麓:橿原市吉田町字西山 |
懿徳 | 軽:橿原市大軽町 | 畝傍山麓:橿原市池尻町カシ |
孝昭 | 葛城:御所市池之内 | 葛城:御所市三室字博多山 |
孝安 | 葛城:御所市室 | 葛城:御所市玉手字宮山 |
孝霊 | 磯城:田原本町黒田 | 葛城:王寺町本町 |
孝元 | 軽:橿原市大軽町 | 剣池:橿原市石川町剣池上 |
開化 | 春日:奈良市上三条町 | 春日:奈良市油坂町 |
崇神 | 磯城:桜井市金屋 | 柳本:天理市柳本字アンド |
神武から懿徳迄は畝傍山山麓に墓所を作って居る。だが2代目の綏靖からは葛城地方に宮居を構えている。
和田家文書に
「總輯東日流六郡誌全」 ”邪馬台国之滅亡 攻防八年之戦史抄”
詳細を読む: https://minsyu-rikken-jiyuu.webnode.jp/products/%e6%ac%a0%e5%8f%b28%e4%bb%a3/
佐怒、邪馬台国の賊国を全略なして立君し、神武天皇と称して日本紀元を建てたりと、世に伝わるも、史実にあらず。邪馬台国に睦みし諸国の王、佐怒の侵奪を非道なりとて、従わざる多く、これらが平征戦、これより二十八年間に及び、佐怒はこの中で死して、立君つひに成らざりきといふが史の実相なり。 寛政十年五月 秋田孝季 和田末次 菅江真澄
と言う記述が有るので、ひょっとすると神武は一代で終わり、後の二代目からは葛城氏の経脈を継ぎ足して居るものかもしれない。だが、ここで注目されるのは「一書」の存在である。日本書紀では主に九州王朝の歴史書から盗用した折に「一書による」と書かれて居る。一書群が7代孝霊まで続いている。8代孝元からピタリと無くなって居る。和田家文書によれば8代孝元は荒覇吐族の荒覇吐5王の一人であったと言う。ここで一書が途絶えるのもその証言と一致する。どうやら神武の係累が歴史の表舞台に居た時代は7代孝霊までで途絶えたように思われる。
和田家文書に磯城氏からも天皇を出した事が書かれて居る。
「丑寅日本記」第十“天皇記行抄” 二
「凡そ、倭国に天皇の創めて即位せしは、古事記、日本書紀、に記行せるより史実相違せるは明白なり。天皇とは支那天皇氏を風聞にして号したるは、百済聖明王が仏法を伝へしより添書に日本天皇とて当たるに創りぬ。
その以前にして号せるは倭王氏、明日香氏、蘇我氏、葛城氏、春日氏、奴氏、日向王氏、とぞ世襲に抜きたるを、倭国王と即位に選抜さるは、諸権の力量にて任解されたり。依て、天皇記にては、神代ぞ非らず。亦、神武天皇一世ぞあるべきもなかりけるなり。
天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。
諸氏権謀術数にして、空位無王の年を長じ、支那三韓より偉を帰化せしめて成れる王ありき、依て、是、天皇記及び国記の巻ぞ、蘇我氏代々の掌中に秘蔵さるに、天皇氏、勢を為して、国史帝事記を固定せるに当り、是の如き天皇記、国記、の既存せるを障害として、蘇我氏に是を呈上せるを再々度に請令せど、時の蘇我蝦夷、応ぜず、中大兄王、船史恵尺に令し、蘇我氏討伐の軍を差向けたりしも、蝦夷、自刃して目当なる天皇記、国記、の虚在奪取ならず、甘橿宮を灾りて、蝦夷、既築の陵をことごとく土除きて石室去棺を壊砕して探せど見付くるなし。是至るは、既にして蝦夷、心得て、坂東の和銅山に移封して、密々に人の知る能はざるなり。
風聞、天皇氏に達して、東国丑寅に密使を以て探求し亦、征夷として要虚を略す、然るに得る事、能はざれば、諸々転々、安倍氏に在りとて倭朝挙げて丑寅を攻め抜き、前九年の役をして抜けども当らざるは天皇記、国記、の行方にて、源氏は是の密令を代々に奉じ、平泉の役をして藤原氏を落せども当らざりき。(原漢書抜天皇記)
正平六年十月二日
三河住人 橘秀継」
奈良盆地にひしめいていた豪族の中で磯城氏も天皇座に就いたことがあることが伺える記述である。その後”磯城氏”の記述が消えて”天皇氏”と言う記述が続いている。近畿天皇家の出自はこの”磯城氏”と言う豪族であった可能性がある。ものの順序、理屈として白村江戦で九州王朝が没落してゆくさ中に日本列島、西日本の支配権を奪取できるにはその当時の新興勢力でなければならないので、かなり薄い可能性ではあるが。
「丑寅日本記 第八」“丑寅日本国要記”
「(前略)倭史の作説なるを審し得るは天皇記、国記、に依るこそ倭史の実相なるも、是を古事記、日本書紀、等にくらぶれば、雲泥の相違なり。天皇紀元ぞ、前漢恵帝の巳酉年とあるも、即位の定かならずとありき。
凡そ仁徳天皇にて倭を一統せるも、その王朝も崇神天皇が久耶漢族を入れて斃し、崇神天皇成れるも、河内王和珥一族に誅滅さる。
後、耶靡堆の三輪郡蘇我郷箸香に春日和珥王朝相成り、攝津の葛城王朝の二朝
に、倭国は成れりとありぬ。依て、天皇紀元の一統に定まれるは推古天皇の辛酉九年に、上宮太子らに依りて、国建の一統成れりと曰ふなり。
依て、天皇記及び国記の抹消に抗して蘇我一族、滅亡の悲運に了りぬ。倭の蘇我蝦夷の古墓に至るまでに解掘さる跡ぞ、石舞台とて残りき。(原漢書)
建長壬子年三月一日 竹内金明」
「丑寅日本記 第九」“序言”
「旧唐書、新唐書に曰く。
日本国は日辺の丑寅に在り、倭国とは異なりぬ、と記述せり。亦、倭王を阿毎氏とせり。 倭国に天皇記、国記、ありて、その実相を遺せども、倭の史を要とせる帝記及び本辞の史書になる倭朝になる史の綴文に虚偽、多く、天皇記、国記、の行文にくらぶれば、その偽作行為に露見の明白なりせば、是に心痛せしは天武天皇にして、古事記の序文に御璽せるは、朕聞く、諸家の齎る帝記及び本辞、既に正実を異にし、多く虚偽を加ふ史文あり。今なる時に当りて改めずば、万世の恥伝を未代に遺す偽書たらん。と勅したり。
然るにや、天武天皇になれる天皇系統史こそ、尚、神代に継ぐる神皇の代々とし、皇祖の万世一系を、神話語部なる大野安麻呂稗田阿禮になる尚、夢想奇想天外の幻しの架定想定の史頭なる建国天皇記元史なり。
依て、その障りとなりきは、本来になる実記、天皇記及び国記なり。依て、大化壬申之年、謀りて是を国神司祭にありき蘇我蝦夷の秘管にありき、天皇記、国記、を奪取亦は焼却せんとし、反忠なる口上を策して、蘇我氏なる館、甘橿の舎棟を灾り、時に蘇我氏火中に自刃せるも、彼の史書得ず、亦、その秘を白状に及ぼさぬまま、是の策謀ぞ空しかりけり。
天皇記、国記、の所在にては、かねて是あるを察せし蝦夷の用心ありて、朝宮にはるか遠き、和銅山荒羽々岐神神之雌神、雄神の二尊胎内に秘詰めて豊田郷神とせしにや、世に知る人ぞ無く、後に坂東八平氏の氏神たる御神体に持廻りしが、平将門、これを江戸郷に祭りしより、是の地を神田とし、神田大明神とて祀りぬ。
将門、幼少の頃より文武二道を心得て、丑寅ぞ日本国なりと知りてより、坂東より丑寅を倭朝より離国し、古来、日本国に復古せんとて、衣川に君臨せし日本将軍安倍国東に、天慶巳亥年に対面し、丑寅日本国の荒覇吐五王の復古を契して、坂東征挙に兵を挙ぐるも、八兵士の裏切、即ち、同族になる坂東八平氏の反忠にて討死せり。
是の策謀を企てたるは、藤原秀郷にして、将門が大事とせし、この神像を将門の遺姫なる楓姫に遺したり。依て、母郷になる羽州仙北之生保内邑にまかりて是を祀りきは、今になる四社神社にして、後世の治安壬戌年日本将軍安倍頻良、是の神像を平泉に建立せし仏頂寺の守護神とて本堂に安置せるも、天喜丁酉年、その子頼良、討死せし史に名高き、前九年之役にて、同族になる安倍富忠の反忠にて、その流箭に葬ぜし鳥海柵にありて、遺言にて祖陵の東日流石塔山荒覇吐神社に、我が骸と倶に納め奉るべしとて、現今に遺りきは、その像胎にありき、天皇記、国記の知る由もなきに、康和庚辰年、此の像、朽にして修理せんにいできたるものなり。
時に安東高星、是を別蔵し、石塔山の宝物とて蔵に秘したりと伝ふは、石塔山秘伝の條たり。(原漢書)
天永壬辰年十月一日
安東高垣
右、日本将軍要史の序言なり。伊予注」
「丑寅日本記 第七」“天皇系疑審書”
「抑々、天皇記を読むれば、古事記、日本書.紀、に奉る天皇をして、世に非らざるを系継せる多し。先づ以て、孝元天皇即ち諡号にして荒覇吐王系なる大根子彦王、その皇子稚根子彦王二代ぞ、天皇に非らず、倭領奪回せし安日王、長髓彦王の阿毎氏耶靡堆王、後なる荒覇吐王系なり。天皇記を捧持せる蘇我氏は己れを蝦夷とせるは此の故なり。
丑寅を平征せると曰ふ崇神天皇、日本武尊、更には、神功皇后も世に非らざる皇系なり。審せば疑ふる多く、朝廷作なる古事記、日本書紀、にいでくる古代天皇の系継ぞ信じるに足らん。王朝之一統司政は後世にて、諸王の王国を以て古代は成れり。
抑々、公史にして、東国の記行なきは知り得ざる未知の彼方にありてこそなり。倭国さえ、和珥王、葛城王、宇治王、大津王、木津王、越王、出雲王、ら群位しけるに、是を一統しけるは至難にして成り難し。
天皇記は、その明細にありて明らさまなり。各処に遺れる天皇陵また然りなり。依て、倭王より大なる墓陵にては宿葬とて玄武の遺骸を抜きて葬せし御門ありきも明白なりと曰ふ。
正平二年五月一日 物部蔵人」
「丑寅日本記 第十」“天皇記行抄一”
「倭史になる古事記、日本書紀、の筆頭行記に載るる天皇の累代は、天皇記に記行なかりけり。神代、亦、然りなりき。
抑々、天皇記、に創まれる記行の筆頭にありては、耶靡堆国、筑紫国、琉球国、南海道国、淡志国、那古国、越国、出雲国、高嶋国、日本国、日高国、流鬼国、千嶋国、佐土国、対馬国、伊治島国、隠岐国、壹木国、坂東国、高砂国、の二十国なり。此の国々、島国、治むる国主の基に二百七十八主の族長ありて、各々睦みぬ。即ち、族長の基になる民は、海部、狩部、稲部、織部、工部、式部、卜部、船部、杣部、河部、あり。その他、馬飼、鵜飼、犬飼、鷹飼、魚飼、鶏飼、あり、更に塩造、玉造、器造、木造、土造、橋造、酒造、車造、鞍造、荷造、網造、炭造、石造、糸造、皮造、鍬造、らあり。是を部の民、造の民とて、営を譜代せり。防人は民、皆兵として急挙に臨めり。討物は、常にして各々備へたり、弓箭、矛、腰刀、楯、ら士気に委せて士風に造り、砦、物見、見告、攻防は族長にして指揮せり。
主系の累代を定むるは長老の選にて位し、衆に引導秀ならざる者は、旧主の子息とて廃せり。世、移りにして国主、族主、併合し、坂東より丑寅を日本国とし、赤間に至るを耶靡堆国とせり。亦、筑紫を邪馬壹国とて、三王国にて併せしも、耶靡堆は、木国、那古国、越国、出雲国、浪速国、高島国、南海道、とて分岐し、筑紫にては、奴国、熊襲国、日向国、薩陽国、隼人国、に相分岐して、常に攻防をくりかえせり。
丑寅にありき日本国、耳治安し、民の生々能く富めり。 (原漢書、天皇記)
正平六年十月二日
三河住 橘秀継」
「丑寅日本記 第六」“侵入不可侵之東日流”
「荒覇吐王の発祥せし東日流及び宇曾利の国は津保毛王の一万年前より応永十七年に至る間、倭領直治のなかりける民族自治の国たり。是の地に耶靡堆より落来たる安日彦王一族を始めとせる落人多く、その智聖を遺したるは、造誘作説の倭史に記さる偽史なり。
吾が日本国は一統信仰になる国治安泰を永代せし国なり。倭人の如何なる智謀も東日流、宇曾利には通ぜず、以て侵入不可侵の国土たり。吾が国より倭国の天皇となりしは大根子彦にして、世に是を孝元天皇と曰ふなり。その誕生せる地に、大根子神社のありきは、今に遺りけり。
吾が国は豊葦原の国にて稲作を耕作せし二千三百余年の史実あり。西に三輪、東に稲架郷に創まりぬ。依て、稲作を稔らせし諸技ぞ倭国より入れたるものならず、晋民の漂着にて、伝はりたるものなり。
古代より民に掟あり。山靼を通じて進みたる紅毛人の律を習へて造りたる国なり。武道また然りなり。失ふなく歴史を伝へたるは、シュメールに習ふる語印にて、信仰の縁源亦、然りなり。依て、倭史を学ぶる者に、丑寅日本国の古史を云々せるは、何れも一毛の史実に当るは無かりけり。
倭史を以て成る史伝を覆えすは、天皇記及び国記に明細たり。はからずや是を吾等に伝へしは蘇我氏にて、日本書紀、古事記、の上記になる偽と実との相違を吾らは掌握しける。是ぞ、いつ代にか衆に説きなば、天皇代に廃さる憂に追求を免がれざる要史なり。依て、是を奪はしむに蘇我氏を誅せども、既にして荒覇吐王の掌握さるまま今に遺りぬ。征夷の至らぬ東日流に是ありきとは、世襲至らば顕れん。
寛政六年十月廿日 秋田乙之介」
これで明白な様に八代目の孝元は荒覇吐王系であり、九代目の開化も同系である。十代目の崇神になって、倭国系になったのである。ここに、崇神に関する記述もある。
「丑寅日本記 第七」“丑寅日本国史抄”
「倭国の天皇記に曰く。韓国より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて、兵を遣して敗るが故に、河内王和珥帝と和睦せんとせるも、和珥帝、元より膽駒王富雄郷之長髓彦系なりせば、春日穂無智別を遣して崇神天皇を討伐せり。
和珥帝に縁れるは、宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏、ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相争ふたり。
崇神天皇に加勢せるは、葛城王にて、日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井氏に滅亡さるまま崩滅せる後を猿田氏が地配せり。是また薩陽王、隼人王、併軍押領に屈したり。
筑紫にては熊襲王、邪馬壹王と併せて奴国王を亡し、茲に立国せり。崇神天皇とは伊裡王の事なり。天皇系にして、景行天皇、倭武、神功皇后、ぞ実在せざるとぞ、天皇記に記述ありき。
文正丙戌年二月七日
船史恵尺之流胤 竹内宗達」
「丑寅日本記 第八」“安倍抄記之序”
「(前略) 倭国と日本国、西南方、と、東北方、にその国堺を越の糸魚川をい西端に、東は三河の北東になる遠江の天竜川を東端とせるを東西として、二国の古王国は成れり。
依て、国号になる日本国とは丑寅の方にて、倭国とは、此の西になる国なり。西南端の高砂国、琉球国、筑紫国、は小国なるも王国にして、互いに船師をして掠むこと常にして治まらず興亡す。王座に崩れし敗亡の君侯は海に遁脱し、新天地を求め、薩陽、大隈、日向、の地に漂着せしも、古来、多くは地王に従卒せしも、日向に漂着せし、高砂王の系にして、佐怒王一族、能く地民の信を誘ふたり。
病ふ者に、麻煙にて一刻の治、活神隠れとて、日蝕、月蝕、の暦運を応用なし、是を信仰の固きに、地民を従がはせしむ。亦、稲、稗、らの種子を地を拓して稔らしむより、その出来秋になる祭祀に舞ふ妖しき女人の神楽に、地王ら遂にして国を献じて従僕せり。
然るに、是を良とせざるは筑紫の熊襲王にして、抗せるも、民は彼のもとに逐電し、遂には神令とて東征の起りたるを、世に是を日向族と曰へり。
第一章に曰く。
筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王に自国を献じて、民を併せしに、その東征ぞ破竹の勢にして、豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。
第二章に曰く。
抑々、倭史になる天皇即位に当つる年代をして、東征、及び天皇一世の成れきは支那年号なる恵帝己酉三年なりと天皇記に遺りぬ。
亦、国記にても倭国の建国はその同日なり。亦、即位の儀になるは、泉原なる処と記ありぬ。即ち、攝津の国内なる竜王山、鉢伏山の間曰ふ。依て、橿原の地に非らざるなりと曰ふ。此の地は耶魔(ママ)堆の阿毎氏の域にて進駐の叶はざる処なりと記に遺りぬ。
阿毎氏とは安倍氏の祖称なり。即ち、荒覇吐日本国王となりて、丑寅に国を創むる農耕国なる始祖なり。
右原漢書
明徳庚戌(ママ)二月十一日 物部鑛金」
「丑寅日本史総解」“日本国号由来”
「(前略) 日本国たるの国号にて、倭国と国を異にせるは、天皇記及び国記にて明白なり。然るに、此の天皇記、国記、ぞ倭朝に無かりけり。大化乙巳の変にて蘇我蝦夷より奪取せんとて、蘇我氏を天誅に中大兄皇子の宣を奉じて、甘橿丘を攻め、蘇我館に火箭を放って?るも、その参謀に当りたる船史恵尺が火中より得ること能はざりきと世に伝ふも、蘇我蝦夷は是事の起らんを覚りて、坂東なる荒覇吐神社へ移密保護し置けり。依て、蝦夷の墳墓までもあばかれ、その玄室は風雨に今尚さらされけむ。爾来、奥州を化外、外民蝦夷とぞ国号せしは通常と相成りぬ。
天皇記及び国記ぞ、東奥にありて世に顕れずと、世に伝ふなり。右、坂東記より。
寛文二年正月三日 浅利与之介」
「丑寅日本記 第八」“蝦夷名由来”
「大化乙巳年蘇我蝦夷、天皇記及び国記、を隠滅してより、風説にして、丑寅の日本国に渡りたるとて、その地に住むる者を蝦夷と呼称せりと曰ふ説ありき。とかく蝦夷とは支那にて創まれる卑しき民を意趣せし言語なり。
亦、天皇記、国記、を蘇我館の炎上より船史恵尺の焼失せるの報せも、諸人に疑はれたり。天皇記、衆に露見せば、須く天皇の累系、民の信を欠くるの大事なり。依て、坂東より丑寅の民をば、まつろはざる蝦夷と曰えり。まさ易々乍ら蝦夷と号けらる事ぞ、如権邪称なりきと老衆の未だに語らる処なり。
寛政六年九月七日 秋田孝季 」
蘇我氏の編纂した「天皇記」「国記」はいまだに東北の地に秘蔵されて居ると言う。この事は「古事記」「日本書紀」が捏造の日本史である事の証拠である。蘇我氏が討伐対象とされたのは歴史書を持って居たからであり、近畿天皇家に都合の悪い歴史書は梵書されようとしたのであるから。欠史8代時代は日本の支配権を廻る激しい争奪戦の火中であった。そこには九州倭国、東北荒覇吐国の激しい領土争いが存在した。津田左右吉が実在しない架空の天皇群だと断じた欠史8代こそが実は日本歴史を紐解く原点だったのである。津田左右吉が「どうせ造作だ」と切り捨てた欠史8代と神武の存在は、正直に記述できない真実の歴史を包含しているのである。
既成の有名歴史家が研究を退ける分野にこそ真実はある。有名歴史家達が現在に於いて鼻もひっかけない和田家文書は将来必ずや日本歴史のバイブルとなるだろう。