古事記は初代神武から23代顕宗までの説話を記録している。23代顕宗から33代推古までは系譜のみが記されている。日本書紀の方では23代顕宗から33代推古までの10代に系譜も説話もある。これはなぜか。日本書紀の系譜は
雄略⇒清寧⇒顕宗⇒武烈
となっている。
日本書紀「武烈記」には武烈がいかに暴虐非道であったかをこれでもかこれでもかと書き連ねている。武烈は天皇たるに相応しからざる人物であることを特段力説し強調しているのだ。
これと似た例は中国にもある。百姓を虐殺し暴虐限りを尽くしたという夏の桀王、妲己の色香に迷い、酒池肉林の乱行の限りを尽くしたという殷の紂王についての記事だ。夏の桀王は臣下だった湯王の挙兵に敗れ、夏王朝は滅亡した。殷の紂王も周の初代、武王に滅ぼされた。中国の天子に反旗を翻し、その覇権を奪ったという大逆罪を正当化するには前王朝を悪党に貶めなければならないのだ。悪逆非道な為政者から民百姓を救うために自分は挙兵したのだ、その行動は少しも非難されるいわれはないのだと力説するために必要な説話である。
残虐非道・悪逆無比に描かれている為政者、夏の桀王、殷の紂王、近畿の武烈、彼らの共通項が一つある。彼らはいずれも王朝最後の王であった。
古事記の説話が顕宗記までで途絶えているのは案外、そのせいではないのかと思う。近畿の王朝は顕宗の後の武烈で途絶えたのだ。恐らく、顕宗記はその後継者の武烈が編纂させたものだろう。
どうやら近畿に覇権を持っていた王朝は、次世代の為政者が前代の為政者の功績や説話を残し記録する伝統を持っていたらしい。武烈の後継者は武烈が滅ぼされたことにより断絶したのだから、当然、古事記に武烈の説話が残る筈もなく、木に竹を接ぐように日本書紀のみが王朝断絶を糊塗して応神から10親等も隔たっている継体を天皇として繋げたのだろう。
継体はかつて4世紀に存在していた応神の5世、もしくは6世の孫だという。
応神⇒若野毛二股王⇒意富々等王⇒乎非王⇒汗斯王⇒乎富等大公王(継体)
記紀ともに武烈には子孫がなかったとしているが、継体よりも武烈に使い近親者は幾らでもいたのではないだろうか。彼らを差し置いて、いきなり滋賀県や福井県の地方豪族が天皇に収まるのは何とも不具合である。武烈までの王朝は事実上断絶したのである。継体の即位は不法の簒奪だった。それゆえ、中国の歴史書の手法を模倣し、武烈の悪逆性を執拗に喧伝する必要があったのだ。古事記・日本書紀編纂時8世紀の近畿天皇家にとって皇統簒奪の事実、その汚点をそそぐことは絶対に必要だった。だから武烈を悪者に描いたのだし、古事記は顕宗記までで途絶えているのである。
「彼らは真の天皇家の直系ではない。不法の簒奪者の子孫である。」と言われないために日本書紀「武烈記」は書かれた。
