遮光器土偶は亀ヶ岡遺跡から出土した。青森県西津軽木造町が亀ヶ岡遺跡の住所である。ここから出土した遮光器土偶と同様の土偶は主に東北地方から多数出土する。
縄文時代晩期、「亀ヶ岡文化」と言われる一大文化圏が青森、秋田、岩手県を中心に分布していた。遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・東海・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。沖縄県北谷町の米軍基地返還地、平安山原B遺跡からも亀ヶ岡式土器が発掘され、出土した地層からはおよそ2500年前の沖縄の縄文期の土器も数多く発掘されたと言う。
この頃の東北では精巧な漆器なども作られていたと言う。2千年以上も前の時代にも約2千キロ離れた場所と交易する能力を縄文時代人は持っていたのである。この遮光器土偶が何を表すのか誰も解らなかった。単に出土地域の亀ヶ岡に因んで「亀ヶ岡文化」と呼び習わせるのみであった。それがなんであるかが明確に記載された文献が有った。東日流外三郡誌に代表される和田家文書である。
和田家文書に付いては発見直後から激しい偽物キャンペーンが貼られた。これは無理もない事で、ここまで事実に限りなく近い古代記載が有っては今迄の日本歴史の常識が根底から覆るのだ。特に古代史においては「日本書紀」「古事記」の記載を中心に考える悪弊を継承して来た歴史学者の面目が保てなくなってしまうのだ。しかも、いち早くこの文書群に着目したのが九州王朝説の提唱者である古田武彦氏であったことが、更なる偽物キャンペーンの業火を呼び込んだ。
それは邪馬台国論争で古田氏に惨敗を喫した安本 美典、かつては古田氏の助手として僅かな年数を過ごしたオカルト作家の原田実らによるものであるが、両者いずれも激しく的外れな論証しかして居ない。寛政年間に集積された伝承文献や口述伝承を集めた文書について偽物と断じるに筆跡鑑定などと言う恐ろしくバカバカしい方策をとり、それに拘泥しているのは小学生が見ても愚かしいと思う事だろう。誰が書いた物で有れ、相手にするべきは内容なのである。内容が史実に即して居れば事実を述べた記述であると言うだけの事なのである。
増して寛政原本も発見され、2006年5月に国際日本文化研究センターで鑑定された結果、本物の近世文書であることが証明されて居る。8世紀初頭に日本の古代文書は殆どが為政者によって梵書されている。その中で九州地方に迄足を延ばして歳月をかけて集積した当文献、日本歴史を読み解くためのヒント、考察の為のパズルのピースが鏤められたかのような当文書を軽々しく扱う事等、真面目に真実の歴史探求をする立場からは考えられない。率直に言って和田家文書を偽物と断じる人々からは真面目さ、誠実さは感じられない。感じられるのは自己保身や怠慢、優れた発見者、学者に対する激しい嫉妬心のみである。男の嫉妬は醜い。醜悪な心根を感じて残念でならない。
それはさて置き、和田家文書「總輯 東日流六郡誌 全」山上笙介編 東日流荒覇吐神之神像にはこう記述されている。
「太古に、人は石を刃物とし、土をねりし造形を干し焼きて器を造りたるより、荒覇吐神なる像をも造形せり。この神像、永き年月の流れに、全て土中に埋もれしも、いまにして、堀りいださるるあり。西浜カムイ丘(亀ヶ岡なり)は、聖地なる故に、多く見付くらるるなり。荒覇吐神と申すも、もとなる称号は、イシカ神、ホノリ神、ガコ神の三神にして、阿蘇辺族、津保化族の崇拝神なりしに、安日彦王、長脛彦王の築きたる荒覇吐王国の成れるによりて、かく改められて、宣教なされたりといふ。神像の分布せるは、奥羽一統にわたり、また、はるか大和の地にまで至れりといはる。 享和二年四月 越野三郎」
同 荒覇吐神起源考 一説
「唐土古伝に、女媧、黄土をまとめて人を造るとあり、東日流にては、晋の流民が定住して以来、土をまとめて像を焼き造れりと伝わりて、これぞ、いまにして、よく土中より出づる、荒覇吐神像なりといはるるなり。その像、乳房を持てる女像の多く、また、大眼をなせし神相は、宇宙を創造せる伏義、万物を創産せし女媧の両神をば、一尊に表せしものなりと、古人はいひ遺せり。東日流に於ける荒覇吐神の聖地は、東に石塔山あり、西には神威丘、則ち、いまなる亀ヶ岡ありき。東方は現世なる祈処にして、西方は過去なる霊界への祈処なり。… 寛政五年十月 秋田 孝季」
同 荒覇吐神起源考 二説
「荒覇吐神は、古代唐土にて起こり、西王母信仰に混合して、天地信仰となり、天山山麓の住民にひろまりしが、やがて、朝鮮におよびて、大白山信仰に変り、さらに、日本の越後に渡りて、白山信仰とあひなりぬ。ともに、天池信仰なりき。日本に於いては、その後、大神神社、白山比咩神社、白神山神社、大山祇神社、十和田神社、猿賀神社、熊野宮などに祀らるるなり。古代日本にては、邪馬台国ありし頃、荒覇吐神とて、国神として祀られたり。しかるに、邪馬台族、日向族に国を奪はれて、東日流に落着し、荒覇吐王国に変りて以来、その支配下たる奥州、坂東にて崇拝さるるのみとなりぬ。さらに、荒覇吐王の裔たる安倍一族の前九年役に滅びてよりは、倭神に変化さるる多く、荒覇吐神は、いまは知る人ぞ少なし。ただ、いささかたりと名をとどめしは、白山信仰の白の字を遺す、白峰、白河、白骨、白糠、白川、白浜、白神岳、白鳥、白根、羽黒白山などありて、古きころの在処を示すのみなり。 寛政五年十月 秋田 孝季」
同 荒覇吐神起源考 三説
「唐土古代神なる伏義と女媧を、宇宙創造の神、万物創誕の神とて像作せしは、東日流古代神なる荒覇吐神なり。この神に、饕餮、九首竜が使従なせるによりて、天然自然に天候異変、山の噴火、地震、竜巻、津波などの障害、また、生死の中に、万物は生命を遺しをるものといふなり。荒覇吐神は称号また多し。天池神、白山神を女神とし、大神山神、大山祇を男の神とせり。古代にては、紅毛国の神なるヌート女神とアトラス男神、アダムとイブ、天竺にてはシバ女神とビシュヌ男神、唐土に於いては伏義と女媧、朝鮮にては大白神と金剛山八天女、日本の白山神と白神山神も、これにあたるなり。東日流にてはアラバキ、または、アラハバキの神として祀りしも、荒覇吐王にて日之本将軍たる安倍一族の厨川合戦にて敗れしのちは、荒磯神、熊野神、大山祇神、大神など改称せられ、また、倭神および佛教宗派に諸行法行を改むるも多く、旧法いまに伝はる社ぞ少なし。 寛政五年十月 秋田 孝季 」
同 白山天池信仰由来
「白山天池信仰といふあり。天竺のビシュヌ神、シバ神、唐土の伏義神、女媧神、朝鮮の大白神、金剛八天女神、わが国にては白山姫神、白山山神と呼ぶも、古代なる祖先の遺せし共通の神なり。これを一神にせるは、天竺のヤクシー女神、唐土の西王母、朝鮮の天池女神、わが国にては荒覇吐神にして、いづれも、大宇宙なる星、日輪、月輪を天なる神とし、地水をも神とせる信仰の主旨は同じなり。これぞ、わが国にては、太古来の信仰なりて、黄土嵐に追はれ来る民によりて伝へられ、天池と称する山の湖を神とする趣旨は、等しくまた、天竺、唐土、朝鮮にあひ通ずるものなり。されば、白山、または、白神と天池信仰は、いづれも、伝説の域を脱けざる多けれど、信仰なる理趣は、等しきなり。
元禄丁丑十年七月 藤井 伊豫 記」
と記述されている。遮光器土偶の正体は古代の荒覇吐神であったのである。このように出土事実と整合し、また説得力のある記述を偽物として無視できる人間の理性は一体どうなっているのかと思う。和田家文書は研究の価値が無限にあるのである。