この弥勒半跏思惟像は、大正7年(1919年)に野中寺₍やちゅうじ・別称中之太子₎、大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の寺院の蔵から塵と埃にまみれた姿で発見された金銅仏である。この仏像の台座の框(かまち)部分には金石文が刻されていた。
「丙寅年四月大□八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」
- 考えられる丙寅年は 186年 246年 306年 366年 426年 486年 546年 606年 666年 726年 786年のどれかである。
「大□」は九州年号かもしれない。もし仮に「大□」が九州年号であったとしたら「大化(695年~700年)」「大長(704年~)」であるから695年~丙寅のある726年の制作となるが、「大□」の□のなかの文字は「旧」であるとする見方が大勢である。Wikipediaによると「本像が丙寅年の四月に「中宮天皇」が病気になったとき「栢寺」の知識(信徒)らが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。丙寅年は西暦666年に当たる。この種の半跏思惟像は像名不明のものが多いが、本像は銘文中に「弥勒」と明記されており、制作年代の明らかな弥勒像の基準作として重要である。銘文にある「中宮天皇」については「天智説」「斉明説」「間人皇后説」などがあるが、定説をみない。「栢寺」についてもどの寺院に該当するかは定説がなく、「栢」の旁は「百」とは字形が違うという見解もある。」とある。
年号大化(695年~700年)の丙寅年は666年だから、この弥勒半跏思惟像は、666年の制作だと推察したい。白村江戦大敗北が662年だから、倭国敗北の4年後の制作である。
江戸時代も終わりの享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条には、
「経蔵 又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」
と記されており、
野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」元禄12年(1699)の文書には、
「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘」
と書かれていると言う。しかし、これらは後年に書かれた文書であり、真義のほどは明らかではない。
上宮,中宮,下宮というのは九州、福岡県前原市の雷山にある。現在の雷神社や千如寺の在る場所は往年の中宮の位置にあると言う。上宮は「天の宮」、中宮は「雲の宮」と呼ばれていたと言う。この山の上宮には3社が祀られて居る。中央がニニギノミコト、左右が天神七柱と地神5柱であると言う。また万葉集にはどうみても近畿天皇家の人では無いと思われる「中皇命(なかつすめらみこと)」の作歌が存在すると言う。「中宮天皇」とは「中皇命(なかつすめらみこと) 」と同一人物なのだろうか。
例えば、奈良正倉院は天平10年(738年)に九州筑後生葉郡の祟道天皇の蔵で有った正倉院が移築されたものであるとの説がある。
例えば、法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものであるとの説がある。
法隆寺の釈迦三尊像は利歌彌多弗利(利・上塔の利)が製造した仏で有り、元々は法隆寺に無かった仏像であるとの説がある。
「中宮天皇」とは誰なのか?「栢寺」とは何処にあった寺なのか?