銅矛と銅鐸

銅矛と銅鐸

古事記、日本書紀共に初めに国土創生神話が有る。例えば古事記上巻では

ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の二柱の神に詔(の)りたまひて、この漂へる國を修理(をさ)め固め成せと、天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。かれ二柱の神、天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛(ぬぼこ)を指(さ)し下(おろ)して畫きたまひ、鹽こをろこをろに畫き鳴(な)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より滴(したた)る鹽の積りて成れる島は、淤能碁呂(おのごろ)島なり。その島に天降(あも)りまして、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。

伊邪那岐・伊邪那美の2神が天つ神々から賜った「天の沼矛」によって淤能碁呂(おのごろ)島を造成し、その島に天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て八尋殿(やひろどの)を見立てたと言う。そして2神は天(あめ)の御柱(みはしら)をめぐりながら、次々と「大八島国」を産んで行ったと言う。

  1. 淡路之穂之狭別島(淡路島)
  2. 伊予之二名島(四国)
  3. 隠岐之三子島(隠岐)
  4. 筑紫島(九州)
  5. 伊伎島(壱岐)
  6. 津島(対馬)
  7. 佐渡島(佐渡)
  8. 大倭豊秋津島(本州ー大和または難波を中心にした畿内の地域)

「古代の国々は矛から生まれた。」「天の沼矛の威力から大八島の国々は発生した。」と言う記述である。つまり「鉄砲から権力は生まれる。」と同義で「古代国家は矛から生まれた。」と言う侵略者の思想が露呈しているのである。下図は「古事記」の大八島図

つまり古事記・日本書紀の神話群は日本列島人が青銅器を使っていた時代の征服譚なのである。時代は日本列島の青銅器時代、弥生期である。よく知られている様に弥生期の日本列島には二大青銅器圏が有った。地域によって出土する青銅器が違うのである。下図は「盗まれた神話・記紀の秘密」古田 武彦著から転載の青銅器分布図

上図で見るように純粋な銅矛圏は九州である。逆に近畿地方は純粋な銅鐸文化圏で有った事が解る。記紀神話は「純粋な銅矛圏」で作られた神話であると言える。「純粋な銅矛圏」を原点として創作された神話群である。近畿和政権が8世紀に創作した記紀には近畿から大量に出土する銅鐸に関しての記述は一切ない。と言う事は銅鐸文化圏は近畿和政権とは無関係だと言う事になる。近畿和政権に先住した他の日本列島人の文化圏であったと言う事になる。

不審はもう一つある。一番初めに生み出した国で有る筈の淡路島は銅鐸出土地域なのである。兵庫県南あわじ市松帆慶野からは袈裟襷文銅鐸が出土している。二番目に生み出した国である筈の伊予の辺りは銅鐸・銅矛混合地域である。3番目に生み出したとされる隠岐も銅鐸中心の地域である。4番目に生み出したとする九州地方は銅矛圏だが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からは銅鐸の鋳型と銅鐸が出土し、出土銅鐸は島根県の福田型銅鐸と酷似しており、同じ鋳型で吉野ヶ里で生産された銅鐸が島根県まで移出された可能性が高いと言う。福岡県、大分県などでも多数の銅鐸や鋳型が出土しているところから九州でも先住民は銅鐸文化であったと思われる。吉野ヶ里は先住民が守って居た土地で有り、後から銅矛を持つ後進者に制圧されたと見る事が出来る。

古事記による国生みの順番図をじっくりと観察すると生まれた国々の中心部が出雲である事が見えてくる。これは出雲王朝の侵略譚を始原の出来事とした神話なのだと思えてくる。伊邪那岐・伊邪那美は或いは古代出雲の始祖神であったのではないだろうかと思えてくる。古田 武彦氏は淤能碁呂(おのごろ)島は現在の博多湾岸の能古島の事だと「盗まれた神話」で述べておられる。同著で隠岐之三子島とは隠岐の島である。

伊予之二名島とは現在の愛媛県双海・両谷近辺の事である。淡路之穂之狭別島とは銅鐸出土の淡路島の事では無く、ひょっとすると徳島県の阿波かも知れない。『古語拾遺(こごしゅうい)』では阿波の忌部氏の指導者だった天富命(あめのとみのみこと)が、宮中に神殿を建て、木綿や麻などの織物は四国の阿波国で作り、鏡や玉などは出雲国で作って居た事が書かれている。同『古語拾遺』に、天富命が神武東征において忌部氏を率い、木国の材木を採取し畝傍山の麓に橿原宮を造営、肥沃な土地を求め当地の開拓をし、穀・麻種を植えたという事も書かれている。「島」とはヤクザの「シマ」と同義で領域を表す。必ずしもアイランドの島ではない。「島」は「州」に置き変えられる。「州」つまり「クニ」である。

5番目、6番目の壱岐対馬からは銅鐸の出土例は見ない。純粋な銅矛圏である。7番目の佐渡からの銅器出土は抑えていないが、福井県坂井市春江町井向からは絵の鋳出された最も古い形式の銅鐸が出土している。描かれている画題の多くが約150年後の桜ヶ丘町出土銅鐸や伝香川県出土銅鐸と共通することが知られている。8番目に生まれた大倭豊秋津島(通説では近畿とされている)だが、近畿は純粋な銅鐸文化圏である。奈良県御所市名柄から出土している。九州の王権であれば三種の神器文化圏で有り、銅矛文化圏である筈である。ここが不審である。

この不審を説くカギは古田氏の本に有った。前述の古田氏の著書「盗まれた神話」での解読によると大倭豊秋津島は近畿ではない。「豊国」の中の「秋津の国」、そこは別府湾の入り口、国東半島の南東端に「安岐」があり、「安岐川」の河口に当たって居る。「和名抄」にも豊後国国崎郡の条に「阿岐」として登場する古名である。此処が大倭豊秋津島だ。同様に吉備子州とは岡山県の児島半島の事である

阿岐郷 安元二年二月、八幡宇佐宮符案。元暦二年三月、八幡佐宮女禰宜大神安子等解案

大倭豊秋津島とは別府湾のことだと言う。秋の津、つまり那の津、難波津と同じで「アキ津=別府湾」となる。日本書紀の方には「壱岐・対馬」が無く変わりに「吉備子州」「越州」「大州」が現れている。「州」は「国」と読む。「吉備子国」「越国」「大国」日本書紀の記述では淡路之穂之狭別州、伊予之二名州、出雲大州(出雲大国)、筑紫州、吉備子州、越州、佐渡州、大倭豊秋津州、ということになる。尚、古事記、日本書紀では征服順はまちまちで最初が大日本豊秋津州であるものが多い。以下の表は「盗まれた神話ー記紀のの秘密」文中の「『記紀』大八州表」を入力したもの。

日本書紀           古事記
本文 第一 第六 第七 第八 第九  
大日本豊秋津州 大日本豊秋津州 大日本豊秋津州 淡路州 淡路州 大日本豊秋津州 淡道之穂狭別島
伊予二名州 淡路州 伊予州 大日本豊秋津州 大日本豊秋津州 淡路州 伊予二名島
筑紫州 伊予二名州 筑紫州 伊予二名州 伊予二名州 伊予二名州 隠岐之三子島
隠岐州 筑紫州 隠岐州 隠岐州 筑紫州 隠岐三子州 筑紫島
佐度州 隠岐三子州 佐度州 佐度州 吉備子州 佐度州 伊岐島
越州 佐度州 越州 筑紫州 隠岐州 吉備子州 津島
大州 越州 大州 壱岐州 佐度州 大州 佐度島
吉備子州 吉備子州 子州 対馬州 越州   大日本豊秋津州

一書に曰く、先づ淡路州を産む。次に大倭豊秋津州、次に伊予之二名州、次に億岐州、次に佐渡州、次に筑紫州、次に壱岐州、次に対馬州 (日本書紀 第七、一書)

この一書によれば「大国」が不在である。「大国」を起点として国生み、つまり侵略に向かったとすれば合点が行く。しかも大倭豊秋津州が別府湾岸の地域だとすれば立派に銅矛圏であるから、近畿出土の銅鐸の存在に悩む必要も無くなる。縄文期には上記国々が大国(銅鐸圏の支配者)の支配地域で有ったのであり、後進勢力はこの地域を銅矛で奪っていったのである。

wikipediaには

三輪氏や賀茂氏などの地祇系氏族との関連は以前より指摘されており、出土分布が島根県(大国主神など出雲神話の舞台)、兵庫県(播磨国風土記など出雲系神話の舞台)、徳島県(天八現津彦命の後裔が定住)、高知県(天八現津彦命の後裔が定住)、奈良県(事代主神など三輪氏の本拠)、滋賀県(和邇氏一派や三上氏の本拠)、長野県(建御名方神の後裔が定住)であるように、三輪氏系部族と物部氏系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとする説もある。これらは神武東征の影響によって崩壊し、畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたとされる。」

「銅鐸はしばしば破壊された状態で発見される。たとえば、兵庫県豊岡市の久田谷銅鐸は、5~10cm前後に砕かれた状態で発見された。奈良県桜井市の脇本遺跡からは、銅鐸の破片の他に銅鐸とは違う鋳型などがまとまって出土し、「銅鐸片を溶かし、鏡や鏃(やじり)などの青銅器に作り替えた」可能性が寺沢薫により指摘されている。」

「埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。あまり注目される事が無いが頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。松帆銅鐸のように海岸砂丘部に埋納されていたと推定される珍しい例もある。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。」と書かれている。

記紀神話の征服譚は専ら銅矛文化圏から銅鐸文化圏への侵略物語であった可能性が高いと見られている。そしてそれは紀元前後と2世紀頃の2回に分けて行われたと見る事が出来る。出土事実に見る銅鐸の埋設時代は2段階有るのである。紀元前後が九州倭政権による第一の廃棄時期であり、2世紀頃が九州王朝説によれば神武東侵による第二の銅鐸廃棄時期、和田家文書によれば開化天皇(和田家文書によれば孝元天皇は荒覇吐族でその実子が開化天皇となって居る)による銅鐸廃棄時期なのだ。

隠岐之三子島(隠岐)は言うまでも無く出雲だ。島根県荒神谷遺跡からは銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6口が出土した。

和田家資料「北斗抄一」『明日香之史談』には銅鐸の埋蔵についての記述が有る。

「倭帝のおはす明日香にまつはる近畿に在る威勢あるは、平群、和咡、巨勢、春日、葛城、蘇我、大伴、物部、ら天皇氏を囲むる国主にして、天皇氏を奉るも、国権統治たる天皇の王座に、位を即権を狙ふる群狼たり。大根子彦帝の時、佐怒王以来なる筑紫の権勢も衰えて、日高見より安倍川を越え近畿に旧権を奪回せしは荒覇吐王の長子にて根子彦と曰ふなり。根子彦、もとより安日彦の流胤にて東日流下磯郡稲架邑に生まれたるに、地の荒覇吐神を祀りき大根子彦神社の社名を頂きて名付けたるものなり。大根子彦、佐怒王以来の落人とて、その子孫、丑寅に日本国を創立し、代々に以て授継たる安日彦が直径の子孫たり。代々に稲作を以て丑寅に富みて、坂東の五王たるに即位せり。五王の中に大根子彦王、安東大将軍とて坂東に在り、倭人の侵犯に怒りて、遂に兵を挙げ、安倍川を越えて倭人の衆徒を追討しけるに、近畿の国主ら併せてこれを妨ぎける。大根子彦、ひるまず祖国大三輪なる蘇我の郷に兵を進め、明日香に群ぐる筑紫の旧孫たるを敗りぬ。亦、畿内八氏降を請ひて大根子彦天皇とて奉られたり。然るに、荒覇吐五王たるに依りて何れに君臨せるや否に判断を決せるに、大根子彦、明日香に駐りて天皇たるの即位に、荒覇吐五王を抜けたれば、従士の多くは従わず、坂東に還りたり。時に荒覇吐王たる東日流王、是を戒むれど、大根子彦、倭王とて聞き入れず、その使者をして東日流に申し立てぬ。依って、大根子彦、出雲王と併せ、その王居を明日香に築宮し、倭王と相成り、八氏の勢を以て五機七道の総領主とて、畿内に於ける荒覇吐神を改むるも、臣下に祟むるを禁ぜるなかりき。依って、五機に荒覇吐神社かしこに建立を得たり。ときに、出雲の地に荒覇吐大宮、筑紫の宇佐及び国東に荒覇吐神社の今に遺りぬ。その行拝に3礼四拍一礼を以てなせるは、今に遺りぬ。大根子彦王こと世に孝元天皇と曰ふなり。その皇子、世に開化天皇ありて、先王の荒覇吐神社崇拝を廃止とし、その崇拝を禁じたり。依って、出雲にては荒神谷と曰ふ処に、神器一切を埋めたり。筑紫にても然りなり。然るに、五機に今に尚、遺る荒覇吐神社あり。信仰の深きを知るべきなり。なかんずく奈古の荒覇吐神社、そのままに遺りぬ。 文政四年十月三日 物部 清仁                 」

『東日流六郡誌大要』の中にも“荒覇吐神一統史”があり、第一期の征服時と第二期の征服時期の違いが書かれている。

「出雲神社に祀らるる玄武の神、亀甲とイヒカの神は荒覇吐神国三神にして古来より祀らるるも、世襲に於いて川神とて遺りぬ。出雲荒神谷神社は大物主の神を祀りし処なるも、廃社となりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献じるを禁ぜしより無用となりぬ。倭領に荒覇吐神にて一統されしは少なに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め、神をも改めたる多し。孝元天皇をして荒覇吐神布せにしも、開化天皇をして是を改めきは、奥州に大根子彦王を建宮せるに依れるものなりと曰ふ。開化天皇、鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を土に埋めたり。神をば天地八百万神として荒覇吐神を廃したりと曰ふ。 寛永二十年八月二日 大邑 土佐守」

 

『東日流六郡誌大要』“荒覇吐神一統史”の説明によると”銅剣358本、銅矛16本、”は武具(討物)を神に奉納する事を止めたために不要となり、土中に埋められたと言う事になる。荒神谷遺跡の土中から出土したのは銅剣358本、銅矛16本の武具(討物)であり、銅鐸は6口と少数でしかない。これが第一期の銅鐸廃棄である。

次に本格的な銅鐸廃棄が行われている。島根県加茂岩倉遺跡からは銅鐸が39口も出土している。是に付いては和田家資料4”安倍、安東、秋田抄一”に記載がある。新たな侵略者は銅鐸に依らず、日針影計の器法で時刻を計って居たのだろう。より便利な機器が現れて既存の利器が捨てられる事は現在でもあり得る。

「邪馬台国の起これるは、わが日下の国百八十国造れる民を併せたる大耶馬止彦を以て一世とせるは、倭史なる神武天皇即位より、はるか三千年の古代有史に昇りぬ。支那流通の路にては、北辰路とて、東日流、渡島、流鬼の三国を経て、黒竜江を満達国に至るは、北辰路なり。次に不知火路とて、邪馬台国、出雲国、筑紫より朝鮮国に渡り、満達国に至るを不知火路と小せり。代経てより、支那、朝鮮に海交せるは、吾が国より支那、朝鮮の民族船来多し。依りて、彼の国より、農耕渡来し、黒米なる稲種ホコネ、白米なる稲種イガトウなる田畑耕作、農を営むるに相成れり。次に草木の皮より糸をつむぎ、織機渡りて衣をまとうは、技をなし、蚕を飼い、桑木山野に伐すを禁じたり。次には、牛馬の渡来より、道橋を諸国に通ぜしめ、邪馬台国五幾道成れり。船を用ふる海交、支那、朝鮮に造法習ひたり。銅なる器の造る石を物交にて造りし。銅器にては鈴を鋳し、今に遺れるは時を告ぐる銅鈴かしこに堀い出さるなり。この銅鈴、国中に流らざるは、後に日針影計の器法渡り、刻を知るに到りて止造せり。…元禄十年十月 藤井 伊予」

つまり第二期の銅鐸の廃棄はもっと便利な時刻を告げる物が出て来た為との事である。銅鐸は「時の鐘」としての役割を持って居たらしい。各集落に一つ二つは必ず有った生活必需品であったと見られる。一部大型化した銅鐸の出土する地域が有るのは、使用用途に依らず装飾品、奢侈品としての用途に使用目的が変わったからででもあろうか。銅鐸・銅器は鉄器にその地位を奪われた。その時期が2世紀なのである。