阿毎多利思北孤 日出処の天子

阿毎多利思北孤 日出処の天子

隋書

俀国伝に書き残された印象深い名文 

「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」

₍聞く、海西の菩薩天子 、重ねて仏教を起こすと。故に兼ねて沙門10人を遣わし朝拜 せしめ仏法を学ばせると。その国の書曰く、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや...₎ 

この名文を携えた使いを 大業3年₍607年₎に隋の煬帝に使わした人物は「其の王阿毎多利思北孤」だった。「故に使して朝拝し、僧侶数十人が来て仏法を学ぶ 」と言うのは希望的予告記事であり、この時にはまだ僧侶数十人はまだ中国に行っていない。

この書を受けて隋の煬帝は「天子は自分ひとり。夷蛮の国が何を言うのだ。」と不快感を示したが、日本からは周(縄文時代)の時代から使いが来ている。俾弥呼の時代(弥生時代)には中国南朝の皇帝が軍を使わして共に対呉政策を取り、闘った事も有る。倭の5王が代々朝見する等の古からの中国南朝の友好国である。その国が自ら「天子」を名乗っているとなると無視してはおけない。ここはひとつ、情勢を見に使いをやれなければならない、と考えたと思われる。

隋書「俀国伝」文中を見て行こう。

「俀国は百済・新羅の東南に在り。水陸3千里。大海の中に於いて山島に依りて居す。魏の時、訳、中国に通じる事30余国。皆自ら王を称す。夷人、里数を知らず、但計るに日を以てす。」

「其の国境、東西5月行、南北3月行、各海に至る。其の地勢、東高く、西下り、邪靡堆に都す。則ち、魏志に謂る耶摩臺なる者なり。」

「古に云う。楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びに1万2千里。会稽の東に在り、儋耳と相近し、と。」

「漢の光武帝の時、使いを遣わして入朝し、自ら大夫と称す。」

これは、後漢書東夷伝の「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」の時と同一の倭奴国であるということを言っている。

「安帝の時、又使いを遣わして朝貢す。之を俀奴国と謂う。桓霊の間、其の国大乱し、たがいに相攻伐して歴年主無し。」

「女子在り。卑弥呼と名づく。鬼道を以て衆を惑わす。是に於いて、国人共立して王と為す。男弟有りて卑弥を佐け、国を理む。」

これは西暦107年『後漢書』東夷伝の「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。」の頃の、あの帥升の国だと言っている。 

「其の王、侍婢千人有り、まれに其の面を見る有る者、唯だ男子人有り、王に飲食を給し、通じて言語を其の王に伝う。宮室・楼観・城柵有り、皆兵を持して守衛し、法を為すこと、甚だ厳なり。」

「魏より斉・梁代に至り、中国と相通ず。」

とあり、俀国が漢の光武帝の時に朝見してきた邪馬壹国であり、斉・梁代に朝見してきた倭の5王の国であることを言っている。

「開皇20年(600年)俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩の雞弥と号す。使いを遣わして闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う。俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば便ち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

俾弥呼の時代から一貫して兄弟統治の政治体制であったことが知れる。兄は天、弟は日。仏教の信奉者らしい結跏趺坐の姿勢で政治を行う姿が描かれている。

「高祖曰く『此れ、太だ義理無し』と。是に於いて訓令して之を改めせしむ。」

恐らくこれは改まって居ない。この後も兄弟統治は続けただろう。歴史的、従来的に継続して来た物を簡単には変えられないと思われる。

「王の妻、雞弥と号す。後宮に女6.7百人有り。太子を名づけて利と為。歌彌多弗の利なり。」  

恐らく百済記か、九州王朝の歴史書「日本旧記」からの盗用であろうと思われるが、「日本書紀」神功紀62年 条に倭国の後宮記事が出て来る。

概略は

新羅が貴国に朝貢しないので沙至比跪を派遣した。沙至比跪は新羅から献上された二人の美女にたぶらかされて、新羅ではなく加羅を征伐した。加羅の国王たちは百済に逃げ込んでその庇護をうける。加羅の国王の妹が大倭に「天皇が沙至比跪を派遣して新羅を討つことを命じられたのに、沙至比跪は新羅の策略に嵌って反対に我ら加羅を攻め滅ぼし、我々は流浪の民となってしまいました。」と申し上げた。
天皇は怒って木羅斤資に精兵を付けて派遣し加羅の国を復興させた。沙至比跪は天皇の怒りを恐れれ、こっそり帰国し隠れ住んだ。沙至比跪の妹が後宮にいたので、沙至 比跪は密かに使いを立てて、妹に天皇がまだ怒っているか問い合わせた。妹は、天皇に夢話に託して「今夜沙至比跪の夢を見た」と言った。天皇は怒って「沙至 比跪がどの面下げて顔だし出来るのか」と言った。この事を兄に知らせてやると、沙至 比跪は、自分は許されないことを知って、絶望し、石穴に入って死んだと言う。

天皇の皇居の近く迄、密かに帰って来て、妹に頼んで天皇が自分に対してまだ怒っているのか聞いて貰う。妹が、夢にことよせて聞いてみたら天皇はまだカンカンに怒っている。もう駄目だ、と儚なんで、「石穴」に入って死んだと言う。この話から、皇居と石穴はさほど遠くない、と言うことになれば、何処だろう。大和の地に「石穴」という場所は無いが、太宰府の都ならば、太宰府近くの「石穴」、現在の太宰府市石坂の「石穴神社」がある。 と古田 武彦氏は推察されている。『ここに古代王朝ありき』 古田 武彦氏 著作

この沙至比跪説話は、通説派(古事記、日本書紀妄信派)の歴史家も 年代に付いて、干支二運繰り上げに気付いている。大方の歴史家は「日本書紀」は神功62年壬午年を262年に当てているが、382年の事だろうとしている。但し、その理由が『日本書紀』編者の努力で卑弥呼と神功皇后の活動期を合わせる為であるとは言わないだけである。この事件は好太王碑文に記載された391~404年の高句麗との激戦の少し前の頃の事である。倭王讃の時代の出来事であろう。

雄略紀には直稽女郎の話が盗用されており、

雄略二年(己巳年なら455年雄略二年は戊戌年)「百済新撰に云はく、己巳年に蓋歯王立つ。天皇、阿禮奴跪を遣して、來りて女郎を索はしむ。百済、慕尼夫人の女を荘飾らしめて、適稽女郎と曰ふ。天皇に貢進るといふ。」という記事は、本来の百済文書にある年の己巳年(429年)にあたる「允恭紀」に書かれず、雄略二年に(戊戌)記事として現れている。26年間の引き延ばしである。『三國史記』に392年辰斯王が、高句麗好太王に攻められて出先で死んだとあるので、『三國史記』記事中の王の立・薨記事が正しく『日本書紀』の記事がすべて120年繰上げている事が証明出来る。 この120年は三品彰英氏によれば、應神39年(308年)から120年目の次の年は允恭18年(429年)にあたる。これは三宅利喜男氏の分析にもよる。

 神功55年(255年乙亥) の肖古王薨御記事は本来、仁徳63年(375年乙亥) である。ここで120年間の繰り上げが行われている。

仁徳80年(392年壬辰)に辰斯王薨御 ・阿花王立つ記事があるが、これも本来は応神3年(272年壬辰)である。これもぴったり120年の引き延ばしである。これら120年間の引き延ばしと雄略紀と允恭紀の26年間の引き延ばしで所謂河内王朝と呼ばれる近畿の王の146年間は全て造作であることが知れるのである。

これも三宅利喜男氏の分析による。三宅利喜男氏 によるとこの時代の近畿の「天皇家」の系図は3つの家系をあたかも一つの系列であるかのように改変したものだと言う。これらは『宋書』 に記述された倭の5王に合わせ、近畿の豪族を倭国王に比定させるための造作だろうと思われる。

 それはともかく、九州倭政権は古くから後宮を持って居たのである。

「城郭なし。内官に12等有り。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員に定數無し。」

「軍尼、1百20人有り。猶中国の牧宰の如し。80戸に1伊尼翼を置く。今の里長の如きなり。十伊尼翼、一軍尼に属す。」

「其の服飾、男子は襦 を着る。其の袖は微小なり。履は屨形 の如く、其の上に漆し、之を脚に繋く。人民多くは跣足 、金銀を用いて飾りと為すことを得ず。故時、衣は横幅、結束して相連ねて縫う事無し。頭にも亦冠無し。但 髪を両耳の上に垂る。隋に至り、其の王始めて冠を制す。錦彩 を以て之を為し、金銀を以て花を鏤 め、飾りと為す。」

大宰府近郊から、王と王后の者と思しき金冠が出土している。

「婦人は髪を後ろに束ね、亦裙襦・裳を衣、皆襈有り。竹にて櫛を流し、草を編みて褥と為す。雜皮にて表を為し、緣るに文皮を以てす。」

「弓、矢、刀、槊、弩、䂎、斧 有り。皮に漆して甲と為し、骨を矢鏑 と為す。兵有りと雖も、征戰 無し。其の王、朝会には必ず儀仗を陳設し、其の国の樂を奏す。戸、10万戸なるべし。」

舟原古墳(6世紀初めから7世紀 )出土の黄金の馬具はこの時代の物と思われる。倭王の墳墓であることは間違いないだろう。奈良県藤ノ木古墳出土の黄金の馬具も 6世紀後半の物である。恐らく九州倭政権が付属国近畿の直接支配に乗り出し、この地を直轄領とした結果だろう。藤ノ木古墳の被葬者は恐らく利歌彌多弗利であろうと思う。 

「其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは、皆死。盗む者は、贓を計りて物を報い、財無き者は、身を没して奴と為す。自餘は、軽重或いは流し或いは杖す。獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は、木を以て膝を圧し、或いは強弓を張り、弦を以て其の項を鋸す。或いは小石を沸湯の中に置き、競う所の者をして之を探らしめ、云う、理由なき者は即ち手爛る、と。或いは蛇を甕中に置きて之を取らしめ、云う、曲なる者は即ち手を螫さる、と。人、頗る恬靜にして、訴訟まれに盗賊少なし。」

『筑後国風土記』逸文 に筑紫君磐井(恐らく石井と読んだ)の記述がある。

磐井の墓とされる岩戸山古墳の附属する別区(衙頭=政所)に、石人(解部=裁判官)が立ち、その前に裸の男(偸人)が地に伏して、側に石猪四頭(贓物=盗品)がある。岩戸山古墳の石人は筑紫君磐井の裁判所を模したモニュメントである。倭国には筑紫君磐井の時代から律令が有り、裁判所が有った。所謂磐井律令である。

「楽に五弦の琴、笛有り。男女多く臂に黥し、面に点し、身に文し、水に没して魚を捕らう。」

「文字無し。唯だ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於いて仏教を求め始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。正月一日に至る毎に、必ず射戲飲酒す。其の余の節はほぼ華と同じ。棋博、握槊、樗蒲の戲を好む。」

俾弥呼は上表文を使者に携えさせた。つまり俾弥呼の時代から倭国は仏教を見聞きし、興味を抱いていたのだ。百済との交流、朝鮮半島での激戦、その主戦場には夥しい仏教伽藍が乱立して居た。室見川の銘板からも倭国が早くから文字を持って居た事は明確である。

「気候温暖にして、草木は冬も青く、土地は膏腴にして、水多く陸は少ない。小環を以て鷺鶿の項に掛け、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得。俗、盤俎無く、藉くに檞の葉を以てし、食するに手を用いて之を哺う。性質直にして雅風有り。女多く男少なし。婚嫁には同姓を取らず。男女相悦ぶ者は即ち婚を為す。婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。婦人淫妒せず。」

気候温暖で冬でも緑が青々として、土地は肥沃。水辺が多く平野が狭い。周囲を海に囲まれて漁業が盛んである。これは九州の土地柄にピッタリと合う表現では無いか。

「婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。」と書かれている。「犬を跨ぐ」とあるが、恐らく本来の意味は「玄」であろう。「玄」は「くろい」と言う意味。「玄室」というのは「暗黒の部屋」或いは「墓室」を言う。8世紀の玄宗(712~756年)以後、「玄」字を「忌避」し、同音ないし類音で「卑字」の「犬」が代置された。本来は「玄(くらき)を跨ぎ」であった。暗い入口の事である。台所の入り口と思われる。

「死者は斂 るに棺郭 を以てし、親賓 、屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以て服を製す。貴人は3年外に殯 し、庶人 は日を卜して瘞 む。葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽 くに、或いは小輿 を以てす。」

「阿蘇山 有り。其の石、故無くして火起こり天に接する者、俗以て異と為し、因 って禱祭 を行う。如意寶珠 有り。其の色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は則ち光有り、と云う。魚の眼精 なり。」

阿蘇山が有り、火が起こり天に接する程の岩石の吹き上げが次々に起きる事を臨場感溢れる筆致で描いている。これは現地を見聞した者で無ければ書けない記述だろう。中国の使者、文林郎裴世清 は阿蘇山を見たのである。

「新羅、百濟 、皆俀 を以って大国にして珍物 多しと為し、並びに之を敬仰 す。恆 に通使往來 す。」

新羅や百済が九州倭国を大国として敬仰し、常に通使を行っていた事が知れる。

「大業3年₍607年)、其の王多利思北孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す、と。故に遣わして朝拝し、兼ねて沙門10人、来たりて仏法を学ばしむ』と。」

「其の国書に曰く『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なしや云々』と。」

「帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く『蛮夷の書、無礼なる者有り、復以て聞する勿れ』と。」

 俀国から使者が来たあくる年の608年に隋の煬帝は 文林郎裴世清を俀国に使わしている。

「明年、上、文林郎裴世清を遣わして俀国に使せしむ。」

百済(朝鮮半島南岸の国)を渡り、行て竹島₍朝鮮半島の南西部辺りの島、現在の竹島とは異なる島、現在の済州島かとの間の島と思われる。読みはチクトウ₎に到り、南に聃羅國(現在の済州島)を望み、都斯麻國(現在の対馬)を経、遥かに大海の中に在り。又東して一支國(壱岐)に至る。又竹斯國(筑紫、現在の博多、九州北部) に至る。又東して秦王国(筑紫の東隣なので同じく博多、九州北部)に至る。更に10あまりの国を経て海岸に至るという。この「海岸」が九州の東岸(しかも北部)であることは疑えない。ずばり、俀国は九州の国なのである。

百済➡竹島➡(南望聃羅國 )➡都斯麻國➡大海(東して)➡一支國➡竹斯國➡(東して)秦王国➡十余国➡海岸

「竹斯國より以東は皆 俀に附庸 す」と言って居るのは、この九州北部東岸迄の事なのである。隋書俀国伝は徹頭徹尾、九州内部の事を書いているのだ。俀国は九州の国である。

「其人 (俀国の人)は、は華夏(中国)に同じ 。以って夷州(いしゆうの國)と為すが疑うも明らかにすること能わざるなり。」

中国側 にたつと、夷州は東夷の國のこと。つまり、 ここは東夷であるが、中国と風俗などが同じであり東夷の國ではないと疑がってしまうほどで あるとしている。 

「さらに十余國を経て海岸に達 する。竹斯國より東は皆俀に附庸す。」 つまり竹斯國より東は俀國の勢力下にある ということ。

俀國伝の冒頭に「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」とあるので魏志倭人伝の時代と都は基本的に変わってい ない。都斯麻國から一支國へ東に向 かっていることから、到着した竹斯國は、倭人伝の伊都國より東の方、不彌國に相当する位置に当たる。邪靡堆 の都の場所は、倭人伝では都が不彌國の南に隣接するので、これに倣うと俀國伝の都は 竹斯國の津の南にあると考えられる。那の津の南である。那津の宮家遺跡(博多区比恵遺跡 〒812-0016 福岡県福岡市博多区博多駅南5丁目12 ) 、比恵環溝住居遺跡 (〒812-0016 福岡県福岡市博多区博多駅南4丁目8−12 )辺りが俀國 の都だろう。比恵環溝住居遺跡から多くの住居跡や甕棺、青銅製品(銅剣・銅矛)などが出土し、 甕棺出土の銅剣に付着した絹は、日本最古の絹織物とされている。 

「俀王、小徳の阿輩臺を遣わす。数百人を従え 儀仗を設け鼓角(太鼓・笛)を鳴らして来迎す。」 

この来迎した場所は那の津であろうから那津の宮家遺跡(博多区比恵遺跡 〒812-0016 福岡県福岡市博多区博多駅南5丁目12 )がそこだろう。608年の或る晴れた日、阿毎多利思北孤の小徳が中国の使者文林郎裴世清を那の津の那津の宮家に迎えたのだ。中国の使者文林郎裴世清は此処に10日間泊まった。

「十日後に、さらに大礼の哥多毗を遣わし、郊労(都の郊外に出迎えて客を歓迎すること)に二百余騎を従う。」

魏志倭人伝に「郡使往来常所駐」とあるから、 都に近い港(那の津)で差錯がないことを確認できたので、 10日後に、港に近い裴清の滞在地、那津の宮家遺跡(博多区比恵遺跡 〒812-0016 福岡県福岡市博多区博多駅南5丁目12 )の場所、 都の郊外に大禮哥多毘が二百余騎を従えて出迎えたという ことだろう。  

「すでに彼の都に至る。」

ここは倭人伝において、 不彌國の南に隣接して都の邪馬壹国があったとする記述に符合する。出迎えた場所と都はすぐ近くであったので「既」に都 に至っていたと記述されているのだ。 

「其の王、清と相見え、大いに喜んで曰く『我聞く、海西に大隋・礼儀の国在り。故に遣わして朝貢せしむ。我は夷人、海隅に僻在して礼儀を聞かず。是を以て境内に稽留して、即ち相見えず。今、故に道を清め館を飾り、以て大使を待つ。請い願わくは、大国惟新の化を聞かんことを。』と。」

「清、答えて曰く『皇帝、徳は二義と並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て、行人を遣わして此れに来たらしめ、宣諭せしむ。』と。」

「既にして清を引きいて館に就かしむ。其の後、清、人を遣わして其の王に謂わしめて曰く『朝命、既に達っせり。請う、即ち塗(みち)を戒めよ』と。」

「是に於いて宴享を設け、以て清を遣わし復使者をして清に随い来たりて方物を貢せしむ。」

「この後、遂に絶つ。」

文林郎裴世清 は俀国王阿毎多利思北孤に中国の帝に臣従するように語ったが、裴世清  に使者を 付けて送らせたのみで、その後の中国との交渉は絶ったようである。勿論、この間に沙門も中国に送り、仏教を学ばせたであろうが、九州倭政権は元々から中国南朝に貢献していたのである。北朝系の隋には心理的にも実態的にも臣従しがたい思いがあったと思われる。目的は仏教を学ぶことのみであったのである。多利思北孤自らが隋の煬帝と同じく、菩薩戒を得たいと思って居たのだろう。

「俀」は「大倭」多利思北孤側の自称国号であろう。「俀」は弱いと言う意味。中国側が「大倭」の文字を嫌って「俀」と書き直したものだろう。

「安帝の時、又使いを遣わして朝貢す。之を俀奴国と謂う。」と有り、「倭奴国」も「俀奴国」と書き改めている。

「阿蘇山 有り。其の石、故無くして火起こり天に接する者、俗以て異と為し、因 って禱祭 を行う。如意寶珠 有り。其の色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は則ち光有り、と云う。魚の眼精 なり。」との記述があり、多利思北孤の都から阿蘇山がほど近い事が解る。

俀国は阿蘇山に祈祷を行う活火山下の国であった。その祈祷には如意宝珠を使う。俀国人は青く夜光る鶏卵ほどの大きさの玉を如意宝珠と言っているが、これは魚の目だろう、と裴世清は推測している。如意宝珠という仏教の言葉を使う仏教国である事が解る。俀国は魚の目を祭祀に使う海洋国家だったのである。

「魏の時、訳、中国に通じる事30余国。皆自ら王を称す。」と書かれている。日本列島には30余りの国が乱立していたのだ。多利思北孤の時代も、多少は版図を広げた大国は有っただろうが、まだまだ日本列島一円の覇者は居なかったと考えられる。斉明天皇5年₍695年)には倭国に伴われて蝦夷国が中国に朝見している。『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であることが述べられている。

日出処の天子、阿毎多利思北孤は俾弥呼、倭の5王の後裔の王者だと考えられ、その都は九州に有った。まだ近畿に天皇家が居なかった時代の王朝である。その国の名は「倭」。「倭国」とは九州の事である。古代中国では天子の直轄領を「九州」と呼んだ。九州倭政権もそれに習い、阿毎多利思北孤の時期に支配圏また、都近くに「秦王国」があるのも、中国の王朝に模したものであろう。直属の係累に「秦王国」を名乗らせたのである。

425年₍元嘉2年₎司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) 

との記述があり、この時の王、倭王讃には司馬の官が居た。この司馬の官「曹達」は、魏の天子曹操と同じく曹家の出であると思われる。316年₍建興4年₎の西晋の滅亡時期に、曹家の一員が倭国に亡命していたものかとも考えられる。あるいは亡命して来て倭国の地に根付いた曹家に「秦王国」を名乗らせ、側近くに居住させていたものかも知れない。九州倭政権は大陸の文化と直結して覇権を築いた王朝なのである。自らの王朝も古代中国になぞらえて構成したとしても不思議はない。

それに対して中国は自分以外に天子は居ないと言う大義名分を持って居る。だから九州倭政権の在処を「九州」とは絶対に記述しなかったのである。

隋書「俀国伝」全文「俀国」

俀国は百済・新羅の東南に在り。水陸3千里。大海の中に於いて山島に依りて居す。魏の時、訳、中国に通じる事30余国。皆自ら王を称す。夷人、里数を知らず、但計るに日を以てす。

其の国境、東西5月行、南北3月行、各海に至る。其の地勢、東高く、西下り、邪靡堆に都す。則ち、魏志に謂る耶摩臺なる者なり。

古に云う。楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びに1万2千里。会稽の東に在り、儋耳と相近し、と。

漢の光武帝の時、使いを遣わして入朝し、自ら大夫と称す。

安帝の時、又使いを遣わして朝貢す。之を俀奴国と謂う。桓霊の間、其の国大乱し、たがいに相攻伐して歴年主無し。

女子在り。卑弥呼と名づく。鬼道を以て衆を惑わす。是に於いて、国人共立して王と為す。男弟有りて卑弥を佐け、国を理む。

其の王、侍婢千人有り、まれに其の面を見る有る者、唯だ男子人有り、王に飲食を給し、通じて言語を其の王に伝う。宮室・楼観・城柵有り、皆兵を持して守衛し、法を為すこと、甚だ厳なり。

魏より斉・梁代に至り、中国と相通ず。

開皇20年(600年)俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩の雞弥と号す。使いを遣わして闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う。俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば便ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。

高祖曰く「此れ、太だ義理無し」と。是に於いて訓令して之を改めせしむ。

王の妻、雞弥と号す。後宮に女6.7百人有り。太子を名づけて利と為。歌彌多弗の利なり。  

城郭なし。内官に12等有り。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員に定數無し。

 軍尼、1百20人有り。猶中国の牧宰の如し。80戸に1伊尼翼を置く。今の里長の如きなり。十伊尼翼、一軍尼に属す。

其の服飾、男子は裙襦 を着る。其の袖は微小なり。履は屨形 の如く、其の上に漆し、之を脚に繋く。人民多くは跣足 、金銀を用いて飾りと為すことを得ず。故時、衣は横幅、結束して相連ねて縫う事無し。頭にも亦冠無し。但 髪を両耳の上に垂る。隋に至り、其の王始めて冠を制す。錦彩 を以て之を為し、金銀を以て花を鏤 め、飾りと為す。

婦人は髪を後ろに束ね、亦裙襦・裳を衣、皆襈有り。竹にて櫛を流し、草を編みて褥と為す。雜皮にて表を為し、緣るに文皮を以てす。

弓、矢、刀、槊、弩、䂎、斧 有り。皮に漆して甲と為し、骨を矢鏑 と為す。兵有りと雖も、征戰 無し。其の王、朝会には必ず儀仗を陳設し、其の国の樂を奏す。戸、10万戸なるべし。

其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは、皆死。盗む者は、贓を計りて物を報い、財無き者は、身を没して奴と為す。自餘は、軽重或いは流し或いは杖す。獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は、木を以て膝を圧し、或いは強弓を張り、弦を以て其の項を鋸す。或いは小石を沸湯の中に置き、競う所の者をして之を探らしめ、云う、理由なき者は即ち手爛る、と。或いは蛇を甕中に置きて之を取らしめ、云う、曲なる者は即ち手を螫さる、と。人、頗る恬靜にして、訴訟まれに盗賊少なし。

楽に五弦の琴、笛有り。男女多く臂に黥し、面に点し、身に文し、水に没して魚を捕らう。

文字無し。唯だ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於いて仏教を求め始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。正月一日に至る毎に、必ず射戲飲酒す。其の余の節はほぼ華と同じ。棋博、握槊、樗蒲の戲を好む。

気候温暖にして、草木は冬も青く、土地は膏腴にして、水多く陸は少ない。小環を以て鷺鶿の項に掛け、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得。俗、盤俎無く、藉くに檞の葉を以てし、食するに手を用いて之を哺う。性質直にして雅風有り。女多く男少なし。婚嫁には同姓を取らず。男女相悦ぶ者は即ち婚を為す。婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。婦人淫妒せず。

死者は斂 るに棺郭 を以てし、親賓 、屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以て服を製す。貴人は3年外に殯 し、庶人 は日を卜して瘞 む。葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽 くに、或いは小輿 を以てす。

阿蘇山 有り。其の石、故無くして火起こり天に接する者、俗以て異と為し、因 って禱祭 を行う。如意寶珠 有り。其の色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は則ち光有り、と云う。魚の眼精 なり。

新羅、百濟 、皆俀 を以って大国にして珍物 多しと為し、並びに之を敬仰 す。恆 に通使往來 す。

大業3年₍607年)、其の王多利思北孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す、と。故に遣わして朝拝し、兼ねて沙門10人、来たりて仏法を学ばしむ」と。

其の国書に曰く「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なしや云々」と。

帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以て聞する勿れ」と。

明年、上、文林郎裴世清を遣わして俀国に使せしむ。

百済を渡り、行て竹島に到り、南に聃羅國を望み、都斯麻國を経、遥かに大海の中に在り。又東して一支國に至る。又竹斯國に至る。又東して秦王国に至る。

其人 は、は華夏に同じ 。以って夷州と為すが疑うも明らかにすること能わざるなり。

さらに十余國を経て海岸に達 する。竹斯國より東は皆俀に附庸す。 

俀王、小徳の阿輩臺を遣わし、数百人を従え 儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。  

十日、又大礼の哥多毗を遣わし、に二百余騎を従えて郊労 せしむ。 

すでに彼の都に至る。 

其の王、清と相見え、大いに喜んで曰く「我聞く、海西に大隋・礼儀の国在り。故に遣わして朝貢せしむ。我は夷人、海隅に僻在して礼儀を聞かず。是を以て境内に稽留して、即ち相見えず。今、故に道を清め館を飾り、以て大使を待つ。請い願わくは、大国惟新の化を聞かんことを。」と。

清、答えて曰く「皇帝、徳は二義と並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て、行人を遣わして此れに来たらしめ、宣諭せしむ。」と。

既にして清を引きいて館に就かしむ。其の後、清、人を遣わして其の王に謂わしめて曰く「朝命、既に達っせり。請う、即ち塗(みち)を戒めよ」と。

是に於いて宴享を設け、以て清を遣わし復使者をして清に随い来たりて方物を貢せしむ。

この後、遂に絶つ。