須佐乃男

須佐乃男

神々の身元は、その神の名に現れている。須佐乃男の場合、須佐₍地名₎プラス男である。そこから推し量れば、現在の山口県萩市の須佐町が須佐乃男の出身地である。剣先イカの捕れる漁業と農業の町で、水揚げされる活イカ「須佐男命いか」₍すさみこといか₎はご当地のブランド商品である。

出雲神の始原の神である須佐乃男はこの地に出自を持つ。

古事記は伊邪那岐が黄泉の国から逃げ帰って禊をした時に天照と共に須佐乃男は生まれたと書く。

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り坐して、禊ぎ祓ひしなり。是に左の御目を洗ふ時、成れる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ふ時、成れる神は月読命、次に御鼻を洗ふ時、成れる神の名は建速須佐乃男命。

日本書紀の第6「一書」では「則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而祓除焉。」とあり、

日本書紀の第10「一書」には「故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、而拂濯也。」とある。

「一書」とは当然九州王朝の史書の孫引きである事を意味する。

とすれば後代、8世紀成立の赤の他人である近畿和政権の文官が、何らの土地勘も無く記述していると見るべきである。元が九州王朝の歴史書であるとするならば「竺紫の日向の」と言う前振りは「竺紫の日向族勢力下の土地」であることを言っているのだ。

禊の地、檍原、もしくは阿波岐原は、橘₍立ち鼻=岬₎の小門にある。その小門は潮の流れが急な粟門と速吸名門との二つ海上の洞穴を持つ地域を往見することができる場所である。山口県下関市の彦島八幡宮のご由緒に

古代は、関門海峡は、門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴があいていて 外海と内海の潮が行き来していた。
いわば洞穴₍ほらあな₎のような状態で、それで穴の門と書いて、『穴門』と呼んだ。

と書かれている。下関市と彦島の間には小瀬戸があり、下関市民は今でもこの小瀬戸を「オド」と呼ぶ。「小門の阿波岐原」とは山口県下関市の彦島の野原の事である。

以上の論理から須佐乃男は山口県に所縁深い神だと言う事になる。伊邪那岐によって天照、月読、須佐乃男が生まれ、この3神は兄弟で有り、姉が天照、次の弟が月読、その次が須佐乃男となっているが、これは偽りである。

対馬に阿麻氐留神社があり、この神社の神は年に一度、出雲に参集していた。出雲に一番後に行って、一番先に帰ってくると言う。つまり出雲神の統治する地域のNO2の実力者であったのだ。この対馬の阿麻氐留が天照の原初の姿である。

所謂「神無月」に諸国の八百万の神々が出雲に参集する時、その八百万の神の一人に阿麻氐留も居たのである。

縄文時代後期、西日本では出雲大神中心の神話が語られていた。それに対して天照はその従属下の配下の一人であった。「国譲り」によって出雲から支配権を奪った九州王朝は自らの正当性を主張する神話を新たに増設したのだ。そうしてこの新作弥生神話が8世紀に成立した近畿和政権に「近畿和政権のものとして」受け継がれているのである。

①須佐乃男→②八島士奴美神→③布波能母遅久奴須奴神→④深淵之水夜礼花神→⑤淤美豆奴神→⑥天之冬衣神→⑦大国主神

大国主神は須佐乃男から数えて7代目である。天照は大国主に「国譲り」の交渉をしている。須佐乃男と天照が兄弟だなどとは真っ赤な偽りなのである。須佐乃男を天照の弟として描く事は、出雲神全体を天照の系列下に置き換える事である。九州王朝は自らの支配の正当性を示す為に既存の出雲神話を取り込み、自らの神話としたのである。弥生神話は九州王朝のPR書であったのである。

「是の時に素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥いて新羅国に降り到り、曾尸茂梨の処に居す。」神代紀第8段、第4、一書

これは逆だろう。須佐乃男は五十猛神を帥いて新羅国の曾尸茂梨から山口県萩市の須佐町に来日したのだ。韓国慶尚北道高霊に「ソシモリ山」はあった。「ソシモリ山」は高霊の現加耶山である。「ソシモリ」は韓国語で「牛の頭」である。

牛頭天王と須佐乃男を同一視する見方も世の中にはある。牛頭天王は八坂神社の祀神であり、貧しい蘇民との友好譚が伝えられる。『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト₍大国主₎の荒魂が牛頭天王であると解説している。平安末期に成立の『伊呂波字類抄』₍色葉字類抄₎では、牛頭天王は天竺の北にある「九相国」の王であるとしている。

蘇民とは阿曾辺族の事であろう。「牛の頭」は山口県の「特牛」₍こっとい₎地名とも重なり、なにやら古代シュメールとの関連を思わせる。ひょっとしたら須佐乃男は出雲₍オロチ族₎ではなく、阿曾辺族、津保毛族であったかもしれない。

高志の八俣遠呂智、つまりオロチ族を退治している。

ここに出て来る「高志」とは出雲国の神門郡の古志郷の事だと古田武彦氏は解き明かしている。

日本書紀は、出雲の国の肥の河上の鳥髪と言う地で出会った脚摩乳、手摩乳がオロチの害に泣いていたのを須佐乃男が助けたと言う。「あしなづち」「てなづち」「やまたのおろち」「おおなむち」オロチ族、「ち」の神様の信仰圏だ。

「出雲国風土記」には出雲国の越制圧譚が記載されている。ここでの主役は大穴持命だ。

「天の下造らしし大神、大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還りましし時、長江山に来まして…」₍意宇郡、母理の郷₎

「越の八口」、越後国岩船郡関川村に「八つ口」が有ると言う。「クチ」は「クチハナ₍蛇₎」「クチバミ₍蝮₎」と同義語で有ると言う。「長江山」とは伯太村赤屋の上小竹の南、伯耆との国境の山であると言う。この越は越前・越後の「越の国」である。

能登半島を中心とした越前・越中・越後に渡る日本海岸、信州諏訪湖畔、野尻湖畔、和田峠の黒曜石を中心とする文明、長岡市を中心とする火焔式土器の文明、日本海に面したこの地域は縄文時代の卓越した文明圏を形成していた。能登半島の真脇遺跡は縄文の神殿、宮殿跡とも考えられる。小浜市の神宮寺には幾万幾千の神々がここに参集する、と言う伝承もある。

この地域を出雲王朝は襲い、支配圏に置いたのである。出雲は登場人物が「ち」の音を持って居る為、オロチ族の神だと思われて来た。だが順を追って考察すると、どうやらそれは見当違いの様だ。古代出雲は「オロチ族」を制圧して支配圏を確立した。むしろ阿曾辺族、津保毛族であったと考える方が無難なのかもしれない。

あるいはオロチ族は専ら討伐される側であったのかもしれない。もともとオロチ族はアムール川の支流ウスリー江、アニュイ川、スンガリ川などの流域に住むツングース系の少数民族である。その神話は主に関東地方に残る。

古田武彦氏もおっしゃった様に、私たちはまだ、なにも知らない。