高麗好太王碑が建てられたのは甲寅年(414年)、好太王の死後、わずか2年目である。刻み込まれた文字がそのまま残った金石文である。まさに生きた、歴史の生き証人的な古代世界の叙述である。
第一面には有名な一文がある。「倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民 」訳すと「倭、辛卯年を以て来たりて海を渡り、百残(百済)を破り、〈さらに新羅を打ち…などを補う〉以て臣民となす」と読み下す。「辛卯年 」とは、好太王の治世では、治世元年の391年にあたる。この年、倭は朝鮮半島に渡り、百済や新羅などを臣民にした。と言うのだ。
しかし、これと矛盾する記述がある。
9年(399年)「王、平壌に巡下す。而して新羅、使いを遣わして王に曰うして云う。『倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為す。王に帰して命を請わん』と。」
上記の言葉は新羅王が好太王に訴えた言葉。そこで倭人の侵犯を説く表現として「倭人、其の国境に満ち」と言って居る。「国境」とは何処の国境か。当然新羅の国境である。では、新羅と何処との国境なのか。当然、「倭国との国境」である。
「新羅と倭国との国境を倭人が侵犯した。」と新羅王が好太王に訴え、好太王は対外的には新羅を助けると言う大義名分で出撃したのだ。
「三国志 東夷伝」においてはこのように書かれている。
①韓は帯方の南に在り、東西海を以て限りと為し、南、倭と接す。(韓伝) ②(弁辰)其の瀆廬国、倭と界を接す。(韓伝) ③(郡より倭に至るに)…其の北岸、狗邪韓国に至る。(倭人伝) ④倭地を参問するに、…周旋五千余里なる可し。(倭人伝)
①には明確にその国家領域が書かれている。②はその具体的な記載である。③の「其の北岸」の「其の」と言う代名詞は「倭」を指している。倭の首都の対岸、北の対岸は狗邪韓国であると記述している。④は「帯方郡地➡女王国」が1万2千里とされ、「帯方郡地➡狗邪韓国 」が7千里とされるから、その両値の差をもって倭地とするものだ。とすると、狗邪韓国を倭地としなければ、この計算は成り立たない。何故なら、その際には「対海国」が倭地の北限となるから「狗邪韓国 ~対海国」間の千余里を差し引かねばならず、倭地は「周旋五千里」とはなり得ないからである。
この3世紀の国家関係が、大枠に於いてそのまま4世紀末、5世紀初頭まで連続されていること、それを示すのが、好太王碑の「其の国境」なのである。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來 」辛卯年は永楽元年(391年)。前国王、国壌王の末年にあたる。その永楽元年(391年好太王18歳)以来、永楽5年(好太王22歳)までの5年間、倭が「来たって」いたのである。その為、「百済・新羅」が高句麗から見て「属民」らしい態度をとらなくなった、と言うのである。18歳にして即位し、雌伏5年の後、ようやく22歳となった青年王者好太王は、倭に制圧されていた南朝鮮領域(百済・新羅)の撃破作戦を敢行したのである。だから渡海して来たのは高句麗であり倭国ではない。倭国は内陸の新羅の国境を攻めていたのであり、もとより陸戦中であったのである。
好太王は内陸に居る倭軍を正面から攻撃するのではなく、海上からその背後、側面を突く渡海作戦を取ったのである。ここにこの青年王の”天才的な奇襲攻撃”の手法が見られる。
3世紀、魏の明帝が遼東半島の公孫淵を征伐した時、まず朝鮮半島に海を越えて兵を送り、淵の退路を断った後、東西から挟撃した。また淵の本拠を包囲した際、海上から兵員、兵糧などを輸送したことが「三国志」公孫伝に書かれている。司馬懿の作戦展開である。この作戦展開は魏が再び朝鮮半島を制圧するに至った決定的な戦いであった。その司馬懿の老練な前策に学び、これを果敢に活用した青年王の奇襲作戦だったと言えるだろう。
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來 」好太王の進軍の理由はこれに尽きるのだという説明文である。「永樂五年歳在乙未王以碑麗不口□
」 は、”碑麗が高句麗に非礼をやめず、臣礼を失ったがゆえに”との意味であろう。好太王第一の行動の根拠をなす、この碑麗討伐戦は、同じ年の「百済・新羅討伐行動」の前哨戦をなした。
第二面の「九年己亥百殘違誓與倭和通 」、「百残、誓いに違い、倭と通ず」、これが王が平壌に巡下し、新羅から「倭人横暴」の訴えを聞き、さらに翌年の「倭兵壊滅」戦に至る根拠となっている。
第三面の「十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界 」、「而して倭、不軌にして帶方界 に侵入す」これも王が親征の行動を起こす原因となっている。「廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢 」、「東夫餘 、もと是、鄒牟王 の属民、中頃叛して貢せず」、これも王の親征の根拠となっている。
上記のような王の軍事行動の根拠をなす”敵側の行為”を示すのが「永楽5年」項中の場合は「百残・新羅旧是…来」の一句なのである。つまり、倭が百済・新羅を占領したことにより、”百済・新羅から高句麗への朝貢”が途絶えたのである。
高句麗王の言い分は上記の如くだが、倭国と高句麗の激突にはある時代背景がある。
辛卯年中に国壌王の死と18歳の若き好太王即位の間に倭の侵入が起こった。この時倭軍は優勢であり、高句麗側は圧迫されていた。これを「国壌王 の9年」と書いて劣勢(敗戦)の中に崩じた王の年号を出そうとしなかったと思われる。この屈辱の中に即位した18歳の青年王は5年間の間、これに耐えた。そしてついに永楽5年、周到に練られた作戦準備の上に立って、渡海撃破作戦を断行した。碑文の簡明な表記は、この青年王の苦渋と決断を石面に歴々と滲ませ、千五百年後の私たちに告げているのである。
時代は中国の王朝交代という激震に有った。
建興4年(316年)新興匈奴(前趙)の劉曜は西晋の都、洛陽と長安に侵入し、西晋第4代の天子、愍帝(在位313~316年)はこれに降伏した。その愍帝の降伏について「晋書」は次の様に伝えている。
「11月乙未、帝(愍帝 )、羊車に乗り、肉袒して壁を銜え、輿櫬して出で降る。群臣号泣して車に攀じ、帝の手を執る。帝亦悲しみに自ら勝えず。御史中丞、吉朗、自殺す。曜 、櫬 を焚き、壁を受く」(巻五)
「建興5年(317年) 11月劉聡、猟に出づ。帝(愍帝 )をして車騎将軍を行せしめ、戎服して戟を執り、導きと為す。百姓聚りてこれを観、故故老は歔欷流涕す。聡、聞きて之を憎む。聡、後に因りて大会し、帝をして行酒・洗爵せしむ。反りて衣を更う。又、帝をして蓋を執らしむ。晋の臣、坐に在る者、多く、声を失いて泣く…。」
「12月戊戌、帝、弑に遇い、平陽に崩ず。時に年18。」
肉袒(あかはだ、はだぎぬ)の姿で口に壁(天子の象徴)を咥える、これは伝統的な降伏儀礼だった。その屈辱の姿で 愍帝は降伏し、西晋朝は滅亡したのである。この西晋朝の滅亡が東アジア世界に激震を与えた。その後、西晋朝の皇族(元帝:在位317~322年)が建康(今の南京)に東晋朝を建国したことはしたけれども、楽浪郡、帯方郡は形式上は東晋朝に属しながら実際は政治空白を招いたのである。この間隙を縫って南進したのが高句麗であり、北進したのが倭国である。高句麗は振興の北朝である匈奴(前趙)の側に明文上ついた。それに対する倭国は東晋朝(南朝)に相変わらず臣従していたのである。
東夷伝 辰韓「国に鉄を出す。韓・濊・倭、皆従いて之を取る。諸市場、皆鉄を買う。中国に銭を用うる如し。又、二郡に供給す。」
辰韓に鉄の産地があり、韓・濊・倭がここに「鉄の入手源」を求めていた事が記されている。朝鮮半島付近の国々では鉄が貨幣の役割を果たしていた事が語られている。
又、供給2郡。
辰韓➡2郡。つまり辰韓 から帯方郡・楽浪郡に鉄が供給されていたのである。辰韓 の鉄の供給をめぐっての交戦 である。倭国にとって鉄は貨幣であった。同時に最新の農具であり、最強の武器だったのである。高句麗の急迫した任那・加羅は倭国の領土であったばかりか、大事な鉄の供給源であったのである。
このように「高句麗王の正規軍対倭王の正規軍」の激突が好太王碑に刻まれているとなれば、その倭王とは、いずれの倭王か…という問題が起きる。九州王朝説ならば答えは単純明快だ。5世紀倭の5王は九州、博多湾岸、邪馬壹国の後身たる王朝である。
泰和4年(361年)、百済王は倭王のために七枝刀を作り咸安2年(372年)それを贈った。その倭王旨は九州王朝の王者であった。その後、19年にして好太王の時代は始まる。つまり、好太王の時代(391~412年)は”倭王旨”と”倭王讃”との間に位置しているのである。
倭王は義煕9年(413年)、つまり好太王の死(412年)と碑の建てられた甲寅(414年)との間に、東晋の安帝に貢献している。一方、「梁書」にある「晋安帝時、有倭王賛」から見ると、東晋の安帝(395~418年)の頃は倭国では、ほぼ「倭王讃」の時期に当たっていたようである。
それゆえ、少なくとも414年に建てられた好太王碑に繰り返し「倭」の文字を刻字していた時、その現実の倭王が倭王讃であったことを疑うことはできない。それは帥升、卑弥呼、壹與以来の統を継いできた王朝、すなわち九州王朝以外の何物でもないのである。
第4面には好太王の教えとして「但吾が躬ら率いて略し来たりし所の韓・穢 」に対して高句麗王家の王墓の洒掃(墓守の仕事)をさせよ、との記述がある。「韓・穢 」は新しく臣従した民と書かれている。「穢 」は「濊」の卑字。朝鮮半島の東岸部中央部にあった国である。百済や新羅は勿論「韓」である。
「新米の韓・穢」「略し来たりし所の韓・穢 」と言って居て、「韓・穢 ・倭」とはなって居ない。半島南辺から洛東江沿いにあったと思われる倭地は、新しい征服地には入れられて居ないのである。
好太王碑の第2面9行には
「追いて任那・加羅に至り、従りて城を抜く。城即ち帰服す。」「安羅人戍兵 、新羅城を抜く。」とあり、高句麗軍は一旦は「任那・加羅 」を制圧下に置いたのである。「安羅人戍兵 」の「安羅人 」は朝鮮半島在住の倭国民である。「任那・加羅 」も言う迄もなく倭地である。
「任那・加羅 ・安羅」は 第4面の墓守にされて居ない。と言う事は、これらの地帯は結局のところ、高句麗軍の支配下に置かれなかった。つまり、高句麗軍は、これらの地域から撃退されたのである。戦いの最後には、この地帯で高句麗軍は倭軍とその同盟軍に敗退した事が暗示されている。後の任那日本府、安羅日本府の地は好太王の遠征軍を撃退して倭国側に属する地として6世紀中葉迄運営されて居たのである。
以下は高麗好太王碑全文
第一面】(11行41文字)
惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖□□□□□□命駕巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮龜應聲即為連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉不樂世位天遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以示後世焉其辭曰永樂五年歳在乙未王以碑麗不口□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百営牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古須耶羅城莫□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□
【第二面】(10行41文字)
利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦拔城□□□城婁實城散那城□婁城細城牟婁城弓婁城蘇灰城燕婁城柝支利城巖門至城林城□□城□□城□利城就鄒城□拔城古牟婁城閨奴城貫奴城豐穰城□□城儒□羅城仇天城□□□□□其國城残不服義敢出百戰王威赫怒渡阿利水遣刺迫城□□□□□便圍城而殘主困逼獻□男女生白一千人細布千匝跪王自誓從今以後永為奴客太王恩赦先迷之愆録其後順之誠於是得五十八城村七百將殘主弟并大臣十人旋師還都八年戊戌教遣偏師觀粛慎土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥百殘違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池以奴客為民歸王請命太王恩慈矜其忠誠時遣使還告以密計十年庚子教遣步騎五萬往救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退□□□□□□□□□背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵□新羅城□城倭滿大潰城口□□□□□□□□□□□□□□□□十□□□□安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言
【第三面】(14行41文字)
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【第四面】(9行41文字)
□□□□七也利城三家為看烟豆奴城國烟一看烟二奧利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百殘南居韓國烟一看烟五大山韓城六家為看烟農賣城國姻一看烟一閏奴城國烟二看烟廿二古牟婁城國烟二看烟八琢城國烟一看烟八味城六家為看烟就咨城五家為看烟豐穰城廿四家為看烟散那城一家為國烟那旦城一家為看烟勾牟城一家為看烟於利城八家為看烟比利城三家為看烟細城三家為看烟國岡上廣開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近舊民守墓洒掃吾慮舊民轉當羸劣若吾萬年之後安守墓者但取吾躬巡所略來韓穢令備洒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓戸國烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以來墓上不安石碑致使守墓人烟戸差錯惟國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得擅買其有違令賣者刑之買人制令守墓之