魏志倭人伝に現れている距離は言うまでも無く「里」である。郡から女王国迄の総距離は12000里と書かれている。
「帯方郡より倭国に至るには、海岸に沿って水行し、韓国に歴るに、たちまち南し、たちまち東し、〔倭の〕北岸の狗邪韓国(この間の距離は) 7000余里である。 」と書かれて居るから帯方郡から朝鮮半島南端までの距離は7000里なのである。12000里-7000里=残り5000里。
狗邪韓国から対海国までが1000里。
対海国 から一大国 までが1000里。
一大国から末廬国 までが1000里。
つまり 朝鮮半島から九州島に至るまでの道のりは3000里。これで女王国に至るまでの工程で残されているのは2000里と言う事になる。
末廬国から東南に5百里行くと伊都国に至る。
伊都国から東南に100里行くと奴国に至る。
伊都国 から東に100里行くと不弥国に至る 。
とあり、九州北部700里の工程が描かれている。2000里-600里=1400里。
この1400里は対海国の半周800里と一大国半周600里とする。
下図の日韓トンネルルートと対比させて考えると想像しやすくなる。
- 狗邪韓国から対海国(水行)1000里
- 対海国(陸行)800里
- 対海国から一大国 (水行)1000里
- 一大国 (陸行)600里
- 一大国 から 末廬国 (水行)1000里
- 末廬国 から伊都国 (陸行)500里
- 伊都国から不弥国 (陸行)100里
で5000里。これで郡から女王国迄の全里程12000里となる。
これを日数で表すと(郡から)南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。と読める。
上図に見るように地図で表された海の広さ、島の面積から考察すると、陳寿の時代の里はかなり短かったのだと思える。古田氏はこの里を75mから90mだろうと言われていた。
魏志倭人伝は有名な三国志に書かれている。三国志と言えば軍記物語。当然様々な戦いの経緯が描かれているのだが、日本の里、1里4kmでは到底あり得ない記述が溢れている。隋・唐の時代の1里は長里(435m~560m)とされている。それを基に考えても不審な記述が結構あるのだ。
『魏志』文帝紀黄初三年
閏月、孫權破劉備于夷陵。初、帝聞備兵東下、與權交戰、樹柵連營七百餘里、謂羣臣曰:「備不曉兵、豈有七百里營可以拒敵者乎 」
羅漢中『演義』『三国演義』第八十四回 陸遜營燒七百里 【今移營夾江橫占 七百里】
とある。 樹木の柵を700里(435m×700=304500m)となってしまい現実とは考えられない。短里で75×700=52500mならば、有るかもしれない。
去北軍二里余【江表伝。三国志、呉志、第九、裴 注所引】
中国後漢末期の建安13年(208年)12月夜半、長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)で起きた曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦い赤壁の戦いの記述である。呉の周瑜の武将、黄蓋が長江(揚子江)の南岸を十隻の舟を以て離岸し、中江(江の中央)で「降伏」斉唱して北軍(曹操)を欺き、更に北岸に接近した。そして北軍を去る200里余の地点で舟に積載して居た魚油を沁み込ませた枯芝に火を点じ、無人火舟を北岸に連結されていた北軍の舟群の中に突入せしめた。北軍の舟は一斉に炎上し、曹操は大敗を喫したのである。
2里余りが長里であれば425m×2=850mで余裕で逃げられそうである。短里であれば75×2=150mでまず逃げられずに炎上可能である。
- (韓地)方四千里【韓伝】
- (高句麗)方二千里【高句麗伝】
- (曹操)未至百余里【烏丸伝】
上記の様に三国志の夷蛮伝(烏丸・鮮卑・東夷伝)と本伝(帝紀・列伝)とが、同一の「里単位」に立って居る事を示す事例がある。
更に隋書、新・旧「唐書」東夷伝も短里である。
旧唐書には倭国は「京師万四千里」と書かれている。帯方郡(ソウル)から二千里北の平壌に起点が移動したと考えて見ると
- A長里(435m)なら14里×435m=6.0千km、約6千km
- B長里(560m)なら14里×560m=7.84千km、約8千km
- C短里(78m)なら14里×78m=1.092千km、約1千km
京師が長安または洛陽とすればABCのどの単位も成立しがたい。日本の奈良と中国西安間は長くて4千kmぐらい。洛陽が都ならもっと短い。それに引き換え、平壌から福岡間は約1千kmで最も1万4千里に近い。つまり長里のABの単位ではあり得ないが短里であれば 京師の起点の問題で有る事が解る。京師の用語は中国の支配権の及ぶ地域を言って居るのではないだろうか。
東夷伝の「倭国百済新羅東南、水陸3千里」で言うと水陸3千里は
- A長里(435m)なら1305km
- B長里(560m)なら1680km
- C短里(78m)なら234km
釜山から福岡まで240km弱である。俀国が近畿奈良に有ったとしたら逆に800kmだからABはどれも大きすぎて不可である。隋書、新・旧「唐書」東夷伝の里についての論評は清水 淹氏の論文に依ったが、清水氏は「後漢書東夷伝はほとんど三国志の数値と同じで有る事が解った。范曄は陳寿の東夷伝を引き写した事が解る。ただ一カ所倭国の中の拘奴国である。後漢書は女王国東千里とある。三国志は女王国南に狗奴国があるとし距離の記載はない。”拘 ”と”狗 ”と違う国を指しているのだろうか。古田先生はここだけ新しい資料に基づいて書いたから漢の長里A435mとして、近畿地方の公野を候補地とした。しかし私はこれだけが長里で、あとは全部短里ということはありえないと思った。大宰府ー熊本間はちょうどC短理78kmである。むしろ陳寿が参照した原資料に”女王国南千里”とあったのを陳寿は”千里”を書き落とし、范曄は”南”を彼の地理間で”東”に改め”千里”を元に戻して書いたかと想像を逞しくする。」と書いていた。
古代史は実に面白いのである。