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祟りの道 祟道天皇
法隆寺が長年秘匿していた「上宮太子立像」(救世観音像)がアメリカ人の仏像愛好家,アーネスト・フェノロサによって開帳されたのは明治17年(1884年)の事であった。アーネスト・フェノロサの仏像鑑賞について、明治政府に法隆寺への歴史理解は皆無でやすやすと許可を与えたと思われる。アーネスト・フェノロサは押しとどめようとする僧侶達を押しのけて仏像をわが手で触り、わが目で見たのだった。世に現れた佛は甚だしく厭魅された姿だったと言う。背を壊し光背を頭骨にじかに打ち付けた無残な姿。何十ヤードにも及ぶ白い布でぐるぐる巻きに縛られて厳重に法隆寺夢殿に封印されていた。(梅原猛氏「隠された十字架」)
今では国宝とさ
大化・白雉・朱鳥
「大化」は九州年号(倭国年号)では六九五年が元年であるところ、『書紀』では六四五年で「五十年のずれ」が見られる。
日本書紀
九州年号
大化(645年~650年4年間)
大化(695~703年(9年間)
白雉(650年から654年4年間)
白雉(652~660年(9年間)
朱鳥(686年のみ)
朱鳥(686~694年9年間)
九州年号では
命長 640~646年(6年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳...
古事記 仁徳記 のちぐはぐ
仁徳の正妻石之日売命の嫉妬を避けて吉備から来て仁徳の第二妃となっていた黒日売は吉備に逃げ帰ったという。その黒日売を船で追う事を考えた仁徳が難波の崎に立ち出でて歌ったという歌が『古事記」下巻、仁徳、聖帝のくだりに出ている。
淤志弖流夜 那爾波能佐伎用 伊伝多知弖 和賀久邇美礼婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能志摩母美由 佐氣都志摩美由
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島も見ゆ
歌には淡島・自凝島・檳榔の島・放つ島の四島が歌われている。大阪の難波を舞台とした場合、この「自凝島(おのごろ島)」が眺望できる訳が無いのだ。この島が『古事記』に初めて出てくるの
天賦人権説
福沢諭吉の「学問のすすめ」冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」と言う言葉はとみに有名である。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」と書かれてはいるが誰が云ったのかは不明であった。
この言葉は西欧の天賦人権説を表す福沢の独創であると考えられてきた。しかし、アメリカ独立宣言にも、フランス人権宣言にも、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言う言葉は無い。しかしながら、「東日流三郡誌及び和田家文書には夥しい数の類似の言葉が存在する。
安倍時頼:天喜元年(1055年)5月2日〈寛政5年10月秋田孝季写し〉北方新社第一巻520~21頁
日高見国末代に住みよき国
ネタバレ日本書紀
日本書紀は外国文書と他王朝歴史のコピペで出来ています。近畿にあたかも古代からの王朝が有ったと歴史を捏造する必要があったからです。その必要とは過去も現在(7世紀初頭)も唐王朝に逆らわない従順な国であった事を示す必要です。7世紀初頭に書かれた国定教科書(日本書紀)には唐王朝の利害が多分に含まれ、文書は見事な漢文で記述されて居ます。白村江で唐・新羅連合軍と闘った国は無かったし、こともあろうに中国王朝に「日出処の天子」を名乗り文書を送る様な不届きな国は無かったのだと示す必要があったのです。
と言う訳でコピペ日本書紀の実録。
西暦
海外
資料
海外文書
記述年
南斉書「倭国伝」の証言
「倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ。
建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・泰韓(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。
号して鎮東大将軍と為せしむ。」
以上は南斉書「倭国伝」の文である。「宋書」の倭王武の上表文(昇明2年・西暦478年)の翌年の南斉代の綬号記事に当たる。
魏志倭人伝の「倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。」との先文を踏襲し書かれて居る事は明白。「漢末以来、女王を立つ。」と言って居るのは魏志倭人伝の中に書かれた女王俾弥呼、及び壱與を指している。「土俗すでに前史に見ゆ。」とは三国志「魏
和田家文書 秋田孝季
和田家文書は天明年間(1781年~1789年)に元々有った本が大火により焼失した事を受け、新たに編纂されたものである。元本は奥州三春藩の藩主、秋田家に伝わる大切な資料文書であった。そこで秋田藩主秋田千季(後に改名して倩季)が、本を復元する目的で、橘隆季に歴史資料の復元と集史を命じ、作成させたのである。
橘隆季は和田長次郎末次と共に、十数年の歳月をかけて各地を回り、集史、編集にあたった。こうして出来上がった文書を「寛政原本」と言うが、この「寛政原本」も火災で失われ、副本として残った保管写本が和田家に残って居た。このため、現在、この写本群を「和田家文書」と呼んでいる。後に橘隆季は養子となり秋田孝季
稲荷山古墳と江田船山古墳(倭王武・獲加多支鹵大王)
埼玉県行田市埼玉にある稲荷山古墳。形状は前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造されたものだとされている。国の特別史跡に指定され、出土品の鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は国宝に指定されている。稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小するとちょうど稲荷山古墳の形に近くなる。
墳丘長120メートル
後円部径62メートル・高さ11.7メートル
前方部幅74メートル・高さ10.7メートル
後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。
埋葬施設は2基、礫
阿毎多利思北孤 日出処の天子
隋書
俀国伝に書き残された印象深い名文
「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
₍聞く、海西の菩薩天子 、重ねて仏教を起こすと。故に兼ねて沙門10人を遣わし朝拜 せしめ仏法を学ばせると。その国の書曰く、日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや...₎
この名文を携えた使いを 大業3年₍607年₎に隋の煬帝に使わした人物は「其の王阿毎多利思北孤」だった。「故に使して朝拝し、僧侶数十人が来て仏法を学ぶ...
パレスチナ問題とアメリカの功罪
いわゆるパレスチナ問題は、宗教上の対立から生まれてきた問題ではなく、中東を舞台とした帝国主義や覇権主義争いによって引き起こされた問題である。今世紀はじめ、イギリス、フランス、ロシアがオスマン・トルコ帝国を倒してその広大な領土を分割し、植民地にしようと画策した。現在のパレスチナ問題といわれるものはイギリス帝国主義の中東への侵略とパレスチナに対する植民地支配に端を発している。 イギリス帝国主義は第一次世界大戦で、それまで中東を支配していたオスマン・トルコを倒して中東の支配に乗り出すため、中東の戦後処理について内容の矛盾する2つの約束を結んだのである。
1つは、アラブ人の協力を得るためメ
「日本国憲法はこれまでその是非を問うことをタブー視されてきた」のウソ
日本国憲法を改悪しようとするアメリカの動き
「日本国憲法はこれまでその是非を問うことをタブー視されてきた」どころか、日本国憲法を亡き者にしようとする動きはすでに、制定後一年にしてア メリカ主導でなされています。1947年5月3日、平和的、民主的条項を明記した日本国憲法が制定され、戦争の終結の喜びと新しい時代の息吹に日本中が湧 きかえっていたころの占領下の日本で、早くも産まれたばかりの日本国憲法を改悪する企てはアメリカによって進められていました。
1948年5月、スカイラー米陸軍准将が作成した文章「日本の限定的軍備」が米ロイヤル陸軍長官に宛てて提出されています。目的は「将来の防衛の...
従属の論理はどのように形成されたのか 《安保幻想》と《吉田神話》日本外交の論理を歴史から見直す。
★前衛2002年5月号 「特集 安保発効50年」
★前衛2002年5月号「従属の論理はどのように形成されたのか」 <安保幻想>と<吉田神話>日本外交の論理を歴史から見直す中部大学教授三浦陽一氏論文をご本人のご許可のもと、 掲載させていただきました。★
「外国の軍隊はこれを招きいれた側に必ず災いを与える。なぜなら、外国軍が負けるとあなたは滅びるし、勝てば勝ったで、 あなたは外国援軍の虜(とりこ)になるからである。コンスタンティノポリスのある皇帝は、周辺の国に対抗するためにトルコ兵一万人をギリシャに導き入れた。...
戦後の世論が産みだした 日本国憲法 《「現行憲法はアメリカに押し付けられた」のウソ》
日本国憲法の制定の時期が、アメリカの占領下であった時期と時期的に重なることが、この「憲法はアメリカにおしつけられた」ように感じさせる大きな 要因であろうと思われます。しかし、ご存知のようにアメリカは敗戦間もない日本に対して執拗に再軍備を求め、その確約を当時の吉田内閣から国民には内密に...
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